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更新日付:2024年9月29日 / ページ番号:C100851
日本では、3世紀後半から7世紀ごろまでの約450年の間、全国の各地に、土を人工的に盛り上げて築いた墳丘を持つ有力者の墓が数多く作られました。考古学の分野では、この墳丘を持つ墓を「古墳」、古墳が多く作られたこの時代を「古墳時代」と呼んでいます。
古墳は最初に近畿地方で作られはじめ、次第に各地へと広がりました。近畿地方に本拠地を構えた、いわゆる「大和朝廷」が全国に勢力を広げていった時期にあたり、その影響下で一定の規範に沿ってつくられたものです。
現在のさいたま市域でも、4世紀中頃から古墳が作られはじめたとみられています。6世紀前後には多くの古墳がつくられましたが、7世紀の末には全国的に古墳の築造が途絶えます。
各地の古墳の形にはいくつかの種類があり、それぞれ呼び名があります。主なものは右の図のようになります。
古墳を形づくっている各部分にも名前があります。下の図のとおり、土を盛り上げた部分を「墳丘(ふんきゅう)」、故人を埋葬した場所を「主体部(しゅたいぶ)」、周囲を取り囲んでいる溝を「周溝(しゅうこう)」、周囲に置かれた焼き物の飾りを「埴輪(はにわ)」と呼んでいます。このうち、埴輪は一部の古墳にしか置かれていません。
左:現在も墳丘が残っている稲荷塚古墳(大宮区三橋) / 右:周溝が見つかった本杢南古墳で行われた発掘調査(桜区中島)※1
古墳がつくられてから、すでに1300年以上が経っており、ほとんどの古墳は墳丘が壊されてしまっています。墳丘は、いったん無くなってしまうと、ほとんど痕跡が残りませんが、墳丘を取り囲むように掘られていた「周溝」は、地中に埋まった状態で残されていることがあります。こうした地中の周溝の跡は、そこに古墳があったことを裏付ける貴重な存在であり、「埋蔵文化財」として発掘調査の対象とされています。埋没した周溝の中には、副葬品や埴輪なども埋まっていることがあります。
さいたま市内では、墳丘が現存している古墳が約20基あるほか、発掘調査で周溝が見つかったり、埴輪が出土したりして古墳であるとみられる場所がこれまでに約100基見つかっています。まだ見つかっていない周溝の跡も、地中に多く残されていると考えられます。
※1:本杢南古墳で行われた発掘調査の写真は文化財保護課提供
古墳は、他の古墳から距離を置いて単独でつくられたものと、狭い地域に密集するようにつくられたものとがあります。さいたま市内では、下の地域に古墳が密集する場所があり、それぞれ古墳群として名前が付けられています。
さいたま市内で発見された古墳や古墳のうち、約110基は、現在の南区から西区にかけての台地の縁や自然堤防上にあります。この台地の縁沿いには、現在も確認できる旧河道沿いの自然堤防の形成状況から、一千数百年前頃まで、相当の水量がある大河川が流れていたと考えられています。この川は水上交通の経路としても機能していたとみられ、交通の便の良い川沿いの各地に豪族が拠点を構え、古墳を作ったのではないかと考えられています。古墳の石室をつくるために使われた石材や、古墳に置かれた埴輪なども、主に水上交通によって運ばれたのでしょう。
このほかの古墳も、見沼や綾瀬川、元荒川など川沿いに立地しており、当時の交通路のようすが想像できます。
左:市内の古墳の分布図 / 右:古墳群の位置と旧河道との位置関係の図
さいたま市内で最も古いと考えられている古墳は、桜区塚本にある「塚本塚山(つかもとつかやま)古墳」です。形は前方後方墳で、作られた時期は4世紀の中頃と考えられています。この時期、埼玉県内では、川口市付近、東松山市付近、本庄市付近の3地域で古墳群がつくられており、それぞれを本拠地とする勢力があったのではないかと考えられています。 このうち川口市付近では前述の大河川の下流部にあたる、現在の川口市新郷に「高稲荷(たかいなり)古墳」と呼ばれる全長75mの前方後円墳がつくられるなど、川口市北部を中心に古墳群がつくられています。塚本塚山古墳の立地は、この勢力圏の北西の端にあたっていたのではないかとみられます。このほか市内では、側ヶ谷戸古墳群の側ヶ谷戸9号墳(円墳)と側ヶ谷戸12号墳(方墳)が、4世紀末ごろにつくられた可能性があるとみられています。
左:4世紀中頃につくられた塚本塚山古墳の遠景 / 右:大久保古墳群大久保支群の古墳の位置
(私有地のため立ち入ることはできません)
このあと、5世紀の前半には、埼玉県内では全体的に古墳がほとんどつくられなくなります。理由ははっきりしていませんが、大和朝廷による何らかの力が働いていたのではないかと指摘されています。
5世紀の後半になると、現在の羽生市付近に、その後「埼玉(さきたま)古墳群」となる大型古墳がつくられはじめます。これとほぼ同じ時期に、市内でも、側ヶ谷戸古墳群の中郷古墳(大宮区三橋4丁目)、大久保古墳群白鍬支郡の塚本塚山古墳(桜区白鍬)、日向古墳群の本杢南古墳(桜区中島1丁目)などがつくられ、周辺に古墳群が形成されはじめます。その後、古墳は6世紀を通して数多くつくられ続けました。市内の古墳のほとんどは、この5世紀後半から7世紀前半にかけての時期につくられたものです。
この時期の古墳には埴輪が置かれているものもありました。市内では、これまでに約120基見つかっている古墳のうち、約20基に埴輪が置かれていたとみられています。多くの場合は円筒埴輪だけですが、中には人形や馬形などをした「形象埴輪」が置かれた古墳もありました。埴輪については、第47回特別展「さいたまの埴輪」の展示Web解説もあわせてごらんください。
写真 左:側ヶ谷戸11号墳出土馬形埴輪 / 右:白鍬塚山古墳出土朝顔形埴輪
7世紀に入るころ、古墳には埴輪が急に置かれなくなり、また形状にも新しい形のものがみられるようになります。こうした状況は全国で共通しており、大和朝廷による何らかの規制が働いたものとみられます。さいたま市内でも、7世紀には埴輪は古墳に置かれなくなりました。古墳の形状も、円墳のほか、本杢古墳(桜区中島2丁目)や今宮1号墳(中央区鈴谷3丁目)など方墳もつくられるようになります。
そして7世紀末、律令制度が全国に広がり、中国から伝来した仏教が次第に普及し、奈良に都がつくられて時代が「奈良時代」へと変わってゆくころ、古墳は全国一斉につくられなくなりました。
文化財保護課が制作している、市内の指定文化財の紹介ページへのリンクです。
古墳時代その2 -編集中-
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