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更新日付:2025年1月8日 / ページ番号:C118357
令和6年10月5日から11月24日まで開催していた、第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」の展示を紹介します。
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熱海温泉考 年不詳 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託 市指定有形文化財 |
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貞享(じょうきょう)2年(1685)の「貞享の改暦」以降、日本における天文学は有識者の間で広まっていきましたが、一方で1543年にコペルニクスによって唱えられた、地球を含めたすべての惑星が太陽の周りを回っているとする「地動説」は、まだ日本に伝わってきていませんでした。
地動説が日本に伝来したのは、髙橋至時(たかはしよしとき)(1764~1804)や間重富(はざましげとみ)(1756~1816)によって寛政10年(1798)に行われた「寛政の改暦」前後のことです。
長崎の通詞(通訳)であった本木良永(もときよしなが)(1735~1794)が、蘭書(オランダ語の書物)を翻訳した『太陽窮理了解説』(1792)で太陽を中心とした太陽系を紹介しています。
古代から天動説が信じられてきた西洋では、受け入れがたく抵抗されてきた地動説ですが、日本では大きな問題になることはありませんでした。
なぜなら日本における天文学とは主に暦を作るためのものであり、観測上の違いが無ければ問題にならず、軌道の中心が太陽でも地球でもさしたる違いがなかったからです。
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地動説の紹介 ※写真は一部 天保5年(1834) 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託 |
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稲垣田龍関係資料の「地動説の紹介」は、天文暦学者・吉雄俊蔵(よしおしゅんぞう)(1787~1843)が文政6年(1823)に著した『遠西観象図説(えんせいかんしょうずせつ)』の付録にある「地動惑問」中の4組の問答を筆写したものです。
文中には「夫レ地球ハ五星ノ属ニシテ、金火二星ノ間ニアリ、五星悉ク太陽ヲ心トシテ旋回スルニ何ゾ地球特(ヒト)リ不動ニシテ、太陽五星ヲ卒(ヒキ)ヒテコレヲ旋回スルノ理(コトワリ)アラン」とあり、地球が金星と火星の間にあり、太陽の周りを旋回していることを説明しています。
「地転新図附属天文図」では、太陽を中心に、水星、金星、地球、火星、木星、土星の軌道が描かれており、それぞれの公転周期や自転周期が記載されています。
また彗星の軌道も描かれており、当時最先端だった地動説に基づいて作成されています。
この天文図には金星に存在しないはずの衛星が描かれており、金星の衛星が存在するか否か、当時の学者の間で論争になっていたことを反映しており、「周期距離不詳」と書かれています。
最先端である地動説をいち早く取り入れ、地元の与野で広めた田龍の想いが垣間見えます。
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地転新図附属天文図 弘化(こうか)3年(1846) 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託 市指定有形文化財 ※与野郷土資料館で常設展示されています |
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