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更新日付:2024年12月27日 / ページ番号:C118236

第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」 展示Web解説 その2

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第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」 展示Web解説 その2

令和6年10月5日から11月24日まで開催していた、第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」の展示を紹介します。

2. 稲垣田龍の世界(前編)

稲垣田龍とは

稲垣田龍(いながきでんりゅう)は、諱(いみな)(生前の実名)を玄節または正雄、字(あざな)(別名)を仙松、号(呼び名)を田龍または剛弼(ごうひつ)と呼び、寛政(かんせい)元年(1789)3月に鈴谷村(現・さいたま市中央区)下組の名主・稲垣新右衛門の子として生まれました。

文化(ぶんか)元年(1804)、16歳(数え年)のときに高橋玄門斎から『兵法秘術巻』という、古くから伝わる兵法・武術の秘伝書を伝授されています。
このことから田龍が少年時代から兵法や武術に関心を持ち、江戸に出て修行をしていたことがわかります。
それから20年後の文政(ぶんせい)7年(1824)、36歳(数え年)のときに『無海流目録』を伝授されており、無海流棒術の奥義を究めて達人の域に達していたことがわかります。

兵法秘術巻
兵法秘術巻 ※写真は一部
文化元年(1804) 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託
無海流目録
無海流目録 ※写真は一部
年不詳 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託

文政3年(1820)にはページ下部で紹介している『天文風雨説』を書写しており、武術を究めながら天文暦学についても学び始めていたようです。

稲垣田龍の師匠・朝野北水

朝野北水(あさのほくすい)(1758~?)は平賀源内の門人であり、 稲垣田龍にとっての天文暦学の師匠です。
前半生は戯作者として黄表紙を数点書いており、天明(てんめい)6年(1786)に書いた代表作の『前々太平記』の挿絵を葛飾北斎が担当していることで知られています。
後半生は全国を遊歴しながら天文暦学を教えていました。
北水の天文学は星座の探し方や惑星の動き、暦の作り方など初等的なもので、理解しやすい内容を扱っています。
また、北水は天体の運行から未来を知ろうとする考えを迷信的だと批判しており、西洋の科学的思考の影響が見られます。
田龍は文政年間(1818~1831)に江戸の深川にある「廣斎舎(こうさいしゃ)」に通って、北水から天文暦学について学んでおり、多くの資料を蒐集(しゅうしゅう)しました。

三説造化論2三説造化論1
三説造化論 ※写真は一部
文政7年(1824) 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託

北水から学んだ資料の一つに、上の写真の『三説造化論』があります。
 「天動説」「地動説」「須弥山説」という3つの宇宙観を取り上げており、北水の著書を田龍が筆写したものです。
「天動説」は地球を、「地動説」は太陽を中心に天体の動きを説明します。
「須弥山説」では世界の中心に須弥山という山がそびえており、太陽も月もその周りを巡るという独特の宇宙観で天体の動きを説明します。
これは古代インドのジャイナ教より発生し、仏教界に伝わる宇宙観です。
この資料では「三説」の概要について述べているほか、古代中国や日本で作られた暦と星々の動きの関係などをまとめたものが記載されています。
『三説造化論』が筆写された文政7年は、地動説が紹介されて30年ほどしか経っていない頃であり、最先端の西洋の知識を取り入れているところが特徴的です。

また、北水は門人に対して刷り物の資料を渡すこともあったようで、 下の写真の『永代俗暦下段考(えいだいぞくれきげだんこう)』はそのうちの一つです。
暦に書き込まれている様々な注記のことを「暦注(れきちゅう)」といいますが、その日の吉凶や運勢を占うのに使用されています。
小さな4つの円はそれぞれ「十干」「十二支」「十二直」「五行」に対応しており、各日の暦注を知ることができます。
また、大きな円は各月の暦注を知ることができます。

永代俗暦下段考
永代俗暦下段考
年不詳 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託

観天望気という考え方

観天望気(かんてんぼうき)とは、自然現象や生物の様子などから天気を予測することです。
中でも「夕焼けの翌日は晴れ」や「太陽や月に暈がかかると雨」、「猫が顔を洗うと雨」など、ことわざとしても残されているものもあります。
経験則にしたがって天気を予測するため、占いのように根拠のないものから科学的に説明できるものまであります。
このように、「天を占うもの」として、天文学はしばしば気象学とも結びついていました。
 
興味深い資料として、文政3年(1820)に書写した『天文風雨説』があります。
巻頭には二十八宿(にじゅうはっしゅく)の名前と星座が図示されており、続いて太陽や月の暈(かさ)について述べています。
さらに流星(よばいぼし)・彗星(ほうきぼし)・虹蜺(にじ)・雲・霞・電(いなびかり)・雷・風・雨・雪・露・霜・霧と続いており、それぞれの現象についての解説が記されています。
このように、気象現象と天文現象は同列のものとして扱われていたことがわかります。
 
天文風雨説1
天文風雨説 ※写真は一部
文政3年(1820)
 個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託 市指定有形文化財
稲垣田龍関係資料の中でも目を引くものとして「日暈之図(にちうんのず)」があります。
下の写真は天保(てんぽう)8年(1837)に観測、記録されたものです。
「日暈」は太陽に薄い雲がかかった際に周囲に光の輪が現れる大気光学現象で、田龍はこのとき虹のような連環が現れたと記しています。
 
天保八年十二月十三日日暈之図
天保八年十二月十三日日暈之図の図
天保八年十二月十三日 日暈之図
天保8年(1837)12月13日
個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託 市指定有形文化財
このような太陽の周りに現れる大気光学現象は、現在では下図のような分類(図は分類の一部)がされており、天保8年の図は幻日(げんじつ)や幻日環(げんじつかん)、環天頂(かんてんちょう)アークなど、数多くの現象が同時に見られたことがわかります。
 
複数の大気光学現象の図
 

天保十四年の彗星出現

下の資料は観天望気に関する観察図と覚書であり、富士山の北側に白く伸びた雲のようなものが見えたことが書かれています。
『与野市史』ではこれ以上の言及はありませんが、真田宝物館(長野県長野市)所蔵の「天保十四年癸卯二月彗星運行之図」や加賀藩河野家が残した河野文庫の「天保十四年彗星出現図説」、その他幕府天文方や藩文書の中に同様の天文現象が記録され、彗星であることが説明されています。
一般的には「1843年の大彗星」と呼ばれているもので、世界各地でも目撃情報が残されています。
 
天保十四年二月十七日望気ノ覚
天保十五年二月十七日望気ノ覚の図
天保十四年二月十七日 望気ノ覚
天保14年(1843)
個人蔵・さいたま市アーカイブズセンター寄託 市指定有形文化財

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