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更新日付:2025年1月7日 / ページ番号:C118359

第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」 展示Web解説 その4

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第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」 展示Web解説 その4

令和6年10月5日から11月24日まで開催していた、第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」の展示を紹介します。

4.深掘り!「大天文図」

中国由来の天文図

現在でも占いと密接な関係にある星座ですが、江戸時代の日本に広まっていたのは、現在私たちにとって馴染みのある「黄道十二星座」ではなく、古代中国から伝わる「二十八宿(にじゅうはっしゅく)」でした。
二十八宿は『水滸伝』や『封神演義』といった中国古典でも扱われており、紀元前8~6世紀ごろには原型が成立していました。
日本には飛鳥時代に伝わったとされており、高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村)やキトラ古墳(同)の石室内の天文図に描かれているものが発見されています。

二十八宿は天球を28の区画(星宿)に分割したものであり、天の赤道付近の28の星座のことでもあります。
二十八宿の星座は月の公転周期の27.32日から由来しており、1日の間で月がおおよそ1つの区画を通過すると仮定しています。
4方角で7宿ずつまとめられており、繋げた形は四神(青龍・玄武・白虎・朱雀)に見立てられました。
二十八宿は中国の天文学や占星術で用いられ、その影響を色濃く受けた日本では江戸時代、大量の出版物が刊行され、ブームの一つになったほどでした。
 
二十八宿
 
中国星座には二十八宿とは別に、古代中国の身分制度が反映された250余りの星座があります。
北極星を「天帝」とし、北極星から遠ざかるほど身分が低く庶民的な星座になるよう配置されています。
こちらは紀元前5~4世紀ごろに原型が成立していました。
 
現在よく知られている西洋星座は、古代メソポタミアの羊飼いたちが夜空を見上げて星々をつなぎ合わせてつくったため、「形ありき」の星座である一方、中国星座は、政治体制や人々の暮らしを夜空に反映しようとしたため、「名称ありき」の星座となっています。

日本初の改暦を行った渋川春海とその息子の昔尹(ひさただ)(1683~1715)は、中国から伝わった星座をまとめ直し、新たに61の星座を命名しています。
中国星座については大阪市立科学館のホームページにて詳しく解説されていますので、下にあるリンク先からご覧ください。
 

深掘り!「大天文図」

 
今回の特別展で展示した「大天文図(天文図)」は、稲垣田龍関係資料の中でもひときわ大きなもので、縦2.5m×横6.8m(枠内)あります。
稲垣田龍の師匠である朝野北水の門人の一人である待野大梁(まちのたいりょう?)の星図を、文政4年(1821)に写したものです。
当時の天文図としては最大級のものの一つであり、田龍が精力的に活動していたことがわかります。
 
大天文図
大天文図
文政4年(1821) 個人蔵・アーカイブズセンター寄託

通常であれば天の北極や南極周辺の星座は別の図で描かれることが多いのですが、「大天文図」では北斗七星をはじめとする一部の北極周辺の星座が描かれているのが特徴です。

天文図の分割の仕方
当時の天文図の描かれ方
北極付近、南極付近を円形とし、それ以外を帯状に開いて平面に起こしました。
「大天文図」には多くの星座が描かれていますが、その中でもよく知られている星や西洋星座に対応する中国星座、日本生まれの星座をいくつか紹介します。
 
日本でもなじみ深い星座としては、北斗七星があげられます。
西洋星座ではおおぐま座の尻尾の部分に対応しており、北天を代表する星の並びなので、古くから北極星を探すのに重宝されてきました。
世界のさまざまな地方で柄杓やスプーンにたとえられ、伝説と結びつくこともありました。
 
北斗七星
北斗七星(北斗)

西洋星座のさそり座は、中国星座では、頭部が「房宿」、胴部が「心宿」、尾部が「尾宿」に分かれており、3つの二十八宿の星座で構成されています。
中国星座の中ではさそり座にあたる3つの星座を合わせて青龍に見立て、明け方に現れると春を告げる星座とされました。

さそり座
さそり座(房宿・心宿・尾宿)

騰蛇(とうだ)とは中国の伝説上の飛行能力を持った蛇もしくは龍の一種であり、三国時代の曹操が歌に詠むほど古くから馴染みのある神獣でした。
アンドロメダ座・カシオペヤ座・ケフェウス座周辺の星々をつなぎ合わせており、頭部にあたる部分の星のつなぎ方が特徴的です。

騰蛇
騰蛇
他の代表的な星座については、本展示の図録に掲載しています。
図録の購入についてはこちらのページよりご案内しています。
 

おわりに

稲垣田龍は鈴谷村の名主の家に生まれ、少年時代から武道に親しみ、剣術や棒術などの修行に励み、三十代で奥義を極めました。
その一方で、朝野北水に師事して天文暦学を学び、多くの貴重な天文学書を書き写すとともに、西洋の天文暦学にも深い関心を寄せ、地動説に共鳴するなど、学問の分野でも優れた才能を発揮しました。
このほかにも蘭学・国学・占星術・神道にも造詣が深く、まさに文武両道に精通した人物だといえます。

西洋の科学的な考え方をいち早く取り入れた人物の一人ですが、同時にそれまで日本国内で教えられてきた学問や宗教観も切り捨てることなく学ぶ姿勢が、彼の残した「稲垣田龍関連史料」から読み取れます。
また、稲垣田龍の名声を聞いて遠方からも教えを請う者が数百人に及んでいたことが妙行寺(現・さいたま市中央区鈴谷)の墓碑銘に書かれていますが、決して驕らず弟子たちを率いていたとされています。
晩年も田畑に親しむことをやめず、人々から敬愛されていましたが、文久元年(1861)12月9日に病没しました。

稲垣田龍は、変わりゆく宇宙観の中で夜空をどのように見上げていたのでしょう。
夜空に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

参考文献

□著書等
広瀬秀雄『日本史小百科5 暦』(近藤出版社、1978)
岩橋清美・片岡龍峰『オーロラの日本史──古典籍・古文書にみる記録』(平凡社、2019)
片岡龍峰『日本に現れたオーロラの謎 時空を超えて読み解く「赤気」の記録』(化学同人、2020)
池内了『江戸の宇宙論』(集英社、2022)

□論文等
梶原滉太郎「「天文学」の語史」(国立国語研究所報告104 研究報告集13、1992)
嘉数次人「江戸時代の天文学【2】江戸幕府の天文学(その1)」(天文教育2007年7月号、2007)
株本訓久「日本における最初の現代天文学の専門書(1)~明治初期の日本における天文学書~」(天文教育2013年5月号、2013)

□Webページ
国立天文台 貴重資料展示室 第45回常設展示「明治時代の天文観測」
富山市科学博物館 とやまサイエンストピックスNo.469「江戸時代の天文普及家 朝野北水」
大阪市立科学館 中国星座への招待 -日本人と星座-
与野郷土資料館展示web解説(その34)

□展示図録
大阪市立科学館『江戸時代の天文学』(2015)
長野市立博物館『星を伝え歩いた男、朝野北水 ~江戸時代の星への興味~』(2017)
国立歴史民俗博物館『陰陽師とは何者か ─うらない、まじない、こよみをつくる─』(2023)

□自治体史・調査報告書
与野市企画部市史編さん室『与野市史 中・近世史料編』(1982)
与野市教育委員会『埼玉県与野市文化財報告書 第十一集 稲垣田龍調査概報』(1984)
与野市総務部市史編さん室『与野市史 通史編 上巻』(1987)

 

関連リンク

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