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更新日付:2025年5月27日 / ページ番号:C121188

第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」 展示Web解説 その7

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第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」 展示Web解説 その7

令和7年3月8日から6月1日まで開催する、第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」 の展示内容を紹介しています。その6はこちらです

未来の地図(2)

大宮公園と盆栽村の開設

令和7年(2025)は、大宮公園の開園から140年、盆栽村の開村から100年の節目の年です。大宮の近代史において、この二つの施設ができたことは、その後の大宮の繁栄を支えた大きな出来事と言えるでしょう。

大宮公園の整備

大宮公園のある場所のうち、ボート池や競輪場より南側の部分は、江戸時代には氷川神社の社領として森が広がっていた場所です。明治時代になると、政府は全国の社寺に社領を国に寄付させましたが、氷川神社でも明治4年(1871)に、現在の境内地を残して約6万坪を国に寄付しました。
こうした土地のうち、公園として活用できそうな場所については、国が県や町村に整備を働きかけました。さいたま市内では、明治7年(1874)に浦和町の調神社周辺、明治10年(1877)に与野町の長伝寺周辺がそれぞれ公園になりました。大宮でも、大宮駅の開設にあわせて公園整備の機運が高まり、明治18年(1885)、大宮駅開業とともに「氷川公園」として開園しました。
埼玉県氷川公園改良計画図開園当初は、整備の予算が十分ではなかったこともあって、園内には以前のままの松林やススキの野原が広がっており、また一部の区画は民間に貸し出されました。賃料は公園の運営予算となり、貸し出された土地には旅館や料亭が建てられて営業を行っていました。
大宮には明治30年代ごろから製糸工場などが建てられるようになり、人口が増えるとともに、東京などから訪れる人も増加してきました。観光地である氷川公園も、施設の整備や充実が望まれるようになり、管理を行っていた埼玉県では、河原井村(現久喜市)出身の林学博士である本多静六に整備計画の立案を依頼しました。
この整備計画は大正10年(1921)にできあがりました。右の地図「埼玉県氷川公園改良計画図」(大正10年(1921)、さいたま市アーカイブズセンター蔵)は、立案された整備計画を表したものです。この地図を含む整備計画書は、本多静六の出身地である久喜市立図書館デジタルアーカイブにも掲載されており、高解像度画像を見ることができます。
大宮氷川公園改良計画平面図埼玉県は、この計画に沿って公園の整備に着手しました。予算の不足や不況、低湿地の埋め立てなどで、順調に進んだわけではありませんでしたが、昭和15年(1940)に開催が予定されていた東京オリンピックの競技会場とする計画も立てられ、昭和8年(1933)から14年(1939)にかけて、競技場やプールなどの施設が完成しました。左の「大宮氷川公園改良計画平面図」(昭和5年(1930)、さいたま市アーカイブズセンター蔵)は実際に建設された施設の図面です。大正10年の計画にあった施設のほか、当時の野球ブームを反映して、陸上競技場のとなりに野球場が追加されています。また、公園から中山道に接続する道路は耕地整理事業の中で整備されました。計画では今の土手町二丁目付近を斜めに抜けて、東光寺の北側付近で中山道に合流する形でしたが、実際には氷川神社の裏参道を広げる形でつくられています。
大宮公園案内図こうして整備された施設も、太平洋戦争中には高射砲陣地設置のために取り壊しが検討されるなど、なかなか活用されませんでしたが、終戦後には本来の競技場として多くの人々に利用されるようになりました。また、陸上競技場では競輪が開催されるようになり、県の財政を支えました。公園の正式名称は「大宮公園」に変わり、さらに施設の充実が続けられました。右の案内図は昭和32~35年(1957~1960)のもので、戦時中に着工し昭和23年(1948)に完成した文化会館、昭和25年(1950)に完成したプールとスポーツセンター(体育館)、昭和30年(1955)に完成した弓道場、昭和32年(1957)に開設された郷土館が掲載されており、また昭和35年(1960)にサッカー場がつくられる場所には池などが描かれています。 
 

大砂土村盆栽村付近明細図盆栽村の開村

盆栽村は、東京の植木職人や盆栽師が集団で移り住んでできた街です。大正12年(1923)の関東大震災による被害や、都市化による環境の変化によって東京での盆栽栽培が次第に難しくなってきたため、環境の良い郊外への移転を検討していたところ、大砂土村(当時)を紹介され、村内の通称「源太郎山」の山林を開墾してまちづくりを行うことが決まりました。入村は大正14年(1925)に始まりました。右の「大砂土村盆栽村付近明細図」(大正15年(1926))は、盆栽村開村の翌年に発行された、盆栽村付近の地図(縮尺3000分の1)です。盆栽村の範囲が色分けされているほか、地番や盆栽園の名前も記入されており、開村当時の盆栽村のようすがわかります。昭和4年(1929)に開業した総武鉄道線(現東武野田線)は手書きで書きこまれています。
この地図は企画展デジタル展示で高解像度画像を見ることができます。

その8へ続く


その8 未来の地図(3)

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