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更新日付:2025年6月1日 / ページ番号:C120864

第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」 展示Web解説 その4

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第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」 展示Web解説 その4

令和7年3月8日から6月1日まで開催した、第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」 の展示内容を紹介しています。その3はこちらです

便利な地図

「正確な地図」の章では、政府が行政のために作った地図について紹介しましたが、世の中にはその他にも様々な地図があります。色々な人々が、それぞれの目的に沿うように、多くの地図を作り、使ってきました。これらの地図は、その目的に応じて便利なものとなるよう、様々な工夫がされています。例えば、どこかへ出かける人のために、どこにどのような施設などがあるのかを示した案内図は、わたしたちが生活の中でいちばん良く目にする地図でしょう。街道や鉄道、商店や観光地など、案内したい内容に応じて、様々な種類の地図がつくられてきました。地図だけでなく、関連する施設や交通機関などに関する情報をあわせて掲載したものも多くみられます。

「大正元年 武蔵平野特別大演習地図」

武蔵平野特別大演習地図時刻表部分大正元年(1912)11月に川越周辺で実施された「陸軍特別大演習」を見学する際の案内図です。「陸軍特別大演習」は、明治時代末から昭和11年(1936)まで、ほぼ毎年、国内のいずれかの地域で行われていたもので、数日間にわたって数万人の将兵が参加し、天皇が大元帥として指揮を行う、国内最大規模の軍事イベントでした。見学も可能であり、毎回多くの観衆が訪れたようです。この地図には、演習が行われる地域の地図に、南北に分かれて交戦演習を行う各陣営の想定される陣地などが記載されているほか、欄外には見学時の注意事項や標識となる旗印の解説、東京から川越への鉄道の時刻表などが掲載されています。
国立国会図書館デジタルコレクションで 「大正元年特別大演習紀念写真帳」「大正元年陸軍特別大演習埼玉県記録」を見ることができます。

「大宮商工並ニ名勝案内地図」(さいたま市アーカイブズセンター蔵)

大宮商工並ニ名勝案内地図昭和9年(1934)に発行された、大宮周辺の商店などを掲載した案内図です。縮尺は記載がなく、周辺部では地形がデフォルメされています。地図は西を上にして描かれています。中央付近には中山道と両側の商店街が左右に続き、その上(西)には鉄道、下(東)には氷川参道が平行しています。左(南)に描かれた山丸製糸場は明治40年(1907)に開設されましたが、昭和5年(1930)に不況のあおりを受けて倒産し、このときには操業していません。左下欄外の片倉製糸、左上の渡辺組大宮製糸所、右上の三栄製糸は盛業中で、それぞれの経営陣は大宮町や与野町の要職も務めています。右(北)には大正14年(1925)に開村した盆栽村や、昭和6年(1931)にできた大宮競馬場も見えるなど、戦前における最盛期の大宮の姿が描かれた地図です。

「うらわ観光あんない」(浦和博物館蔵)

うらわ観光あんない昭和60年(1985)ごろの、手描きのイラストを使った観光案内地図です。縮尺は描かれていませんが、浦和市域の形や道路などはほぼ正確な位置に描かれています。建設中の東北・上越新幹線と通勤新線(後の埼京線)は太い線で描かれており、当時の期待の度合いが伝わってくるようです。同じく建設中の国道463号バイパス、第二産業道路などは白抜きで描かれており、こちらも目立ちます。

絵地図・鳥観図

一般的な地図は、地上にあるものを単純な図形や記号として表し、真上から見下ろした形で図にしますが、これを絵で表したものや、斜め上から見わたした形で図にすることもあります。作成に手間はかかりますが、人目を惹きつけるものがあります。
土地の姿を、空を飛ぶ鳥の目から見たように描いた「鳥瞰図」(ちょうかんず)は、江戸時代以前から絵巻物などに描かれており、江戸時代には出版文化の発達とともに多くの作品がつくられるようになりました。西洋から「遠近法」を用いた絵の描き方が導入されると、その手法も取り入れられていきました。近代に入り、交通機関や印刷技術が発達すると、観光地の紹介などを目的とした鳥瞰図の発行が流行し、多くの作品がつくられました。その多くはパンフレットなどの印刷物となり、数多く印刷、配布され、人々の目を楽しませました。

吉田初三郎の鳥観図

今回の展示では、「吉田初三郎」の作と記されている大宮の鳥観図を2点展示しています。吉田初三郎(初代:1884~1955)は、数多くの鳥観図を手掛けた画家で、その業績から「大正の広重」とも呼ばれ、現在に至るまで高い評価を得ています。
初期の代表作といえる『鉄道旅行案内』(1921)は国立国会図書館のNDLイメージバンク「吉田初三郎のパノラマ鳥観図」で、他の多くの作品は国際日本文化研究センターの「吉田初三郎式鳥観図データベース」などで見ることができます。

「大宮鳥観図」(昭和9年(1934))

大宮鳥瞰図(昭和9年)
当時の大宮町の外郭団体で、大宮の観光振興や移住者の誘致などの事業を行っていた「大宮町保勝会」が、吉田初三郎に依頼して制作された鳥観図です。大宮町保勝会が発行した案内パンフレット「大宮」に掲載されました。
鳥観図は大宮の市街地を東側から見下ろしたように描かれており、遠景には富士山や浅間山が描かれています。 中央付近には、氷川神社と大宮公園の各施設が細かく描きこまれており、横一文字に伸びる氷川神社の参道とともに、最も目を惹く部分となっています。参道には4つの鳥居が描かれ、また本殿前には現在の楼門ではなく神門が描かれるなど、当時の境内の様子も正確に描かれています。公園内には遊園地ホテルの建物も特徴をとらえて描かれています。
国際日本文化研究センターの「吉田初三郎式鳥観図データベース」に、パンフレット全体の高解像度画像が掲載されていますので、ぜひ隅々までご覧ください。

「大宮市鳥観図」(昭和30年(1955)ごろ)

大宮市景勝鳥瞰図
大宮市及び大宮市観光協会が発行したパンフレット「観光のおおみや」に掲載された鳥観図です。今回の展示では、絹の布地に描かれた原画と、印刷・発行されたパンフレットの両方を展示しています。
昭和9年の「大宮鳥観図」とは逆に、大宮の市街地を西側から見下ろしたように描かれており、遠景には筑波山などが描かれています。中央付近には大宮駅と国鉄大宮工場、大宮操車場が描かれており、「鉄道の町」大宮を印象付ける構成です。原画には、制作時に描きこまれた施設名称のほか、完成後に絵の上に貼り足された施設名称も数多く見られます。パンフレットにはいずれも同じように印刷されていることから、印刷原稿とする際に追加されたものと思われます。
制作の時期ですが、昭和30年(1955)に大宮市に合併した指扇・馬宮・植水・片柳・七里・春岡の各村の役場が市役所の支所として描かれていることから、早くとも合併が決まった昭和29年(1954)以降に描かれたものです。また、昭和31年(1956)9月に完成した東大成小学校の校舎なども描かれています。吉田初三郎は昭和30年(1955)に亡くなっていますが、作品の制作は生前から弟子とともにチームで行っており、没後にも弟子の吉田朝太郎が二代目「吉田初三郎」を名乗って作品が制作されているため、作品の完成やパンフレットの発行は昭和31年(1956)以降である可能性も十分に考えられます。

教育のための地図

自分たちの暮らす街や国、世界がどのような姿をしているのかを学ぶとき、地図はとても役に立ちます。明治時代、近代教育の制度が始まり、各地の学校で社会や地理について教えるようになると、既存の地図のほかに、教材用の地図が作られるようになりました。授業中に教室の前に掲示し、指さしたりしながら学ぶための「掛図」(かけず)や、生徒一人一人が手元に持って、読んだり調べたりするための「地図帳」など、様々な種類の地図が、学習内容に応じて作られています。

関東地方全図掛図「関東地方全図」

昭和33年(1958)に制作された、関東地方全体を描いた学校用の掛図(縮尺16万分の1)です。昭和31年(1956)大宮市立高等学校として開校し、昭和33年(1958)に校名を変更した大宮北高等学校で使われていました。戦後の高度経済成長が始まって間もない時期で、新幹線や高速道路、東京湾岸の埋め立て地などもまだ完成していないため描かれていません。東京を中心とした市街地の広がりも、東京都区内におおよそ収まっており、市に昇格している地方都市もまだ多くありません。

掛図「浦和市大地図」

浦和市大地図

昭和55年(1980)に制作された、浦和市域を描いた学校用の掛図(縮尺1万分の1)です。今の桜区の大久保小学校で使われていました。地図の背景は地形で色分けされており、台地と低地が入り組んでいる様子がよくわかります。「家の多いところ」には斜線で網掛けがされており、当時の市街地の広がりが見て取れます。また、各種の施設のうち、市内の公園だけが濃い緑色で塗り分けられており、位置や広さがわかります。

その5へ続く


その5 未来の地図(1)

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