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更新日付:2024年6月10日 / ページ番号:C114244
令和6年3月9日から6月9日まで開催した、第35回企画展「鴻沼(こうぬま)」の展示を紹介します。
近世以前の関東平野には無数に存在する池沼と開発の手が及ばない大デルタ地帯が広がっていましたが、徳川家康が江戸に幕府を開いたことをきっかけに様相を一変させることになります。
関東郡代・伊奈忠次(1550~1610)によって始められた「関東流(伊奈流)」と呼ばれる開発方式は、既存の川を堰き止めて溜井(溜め池)とし、旧河道の流路を活用して上流の排水を下流の用水として使用するものでした。
また洪水対策としては遊水地を設置するなど、蛇行した河道をそのままにし、洪水を蛇行部に滞留させつつ徐々に流入させました。
その結果、農地には肥沃な土砂が流入することになり、流域内に点在する沼沢や低湿地を縮小させて耕地造成を促します。
このように「関東流」は、自然を利用した優れた面を持った開発方式でした。
![]() (クリックすると拡大します) (荒川上流河川事務所が作成した図をもとに作成) |
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関東流の用水 |
関東流の治水 |
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しかしその反面、「関東流」には河川の蛇行をそのままにするため洪水や氾濫が起きやすいという弱点があり、下流域の開発が進みませんでした。
また、溜井に溜めておける水の量には限りがあることから、周辺の新田開発が進むと用水が不足するようになりました。
そうして、江戸時代中期には関東平野の開発は技術的限界を迎えました。
江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗は、「関東流」でのこれ以上の開発は困難と見て、享保7年(1722)、地元・紀州の紀の川流域の開発で名を挙げていた井澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)(1654/63~1738)に関東地域の新田開発や灌漑を命じました。
そこで採用されたのが、蛇行していた川の流れを直線的にし、用水路を開削し用水と排水を分離する、「紀州流」と呼ばれる開発方式です。
洪水に逆らわない「関東流」に対して、「紀州流」は流れをコントロールするのが特徴です。
弥惣兵衛は「関東流」の乗越堤(のりこしてい)や霞堤(かすみてい)を取り払い、蛇行していた河道を築堤と護岸によって直線状に固定し、新たに連続堤(れんぞくつつみ)を建設することで、川の流れを河川敷の中に押し込めました。
これにより遊水地は廃止され、これまで放置されていた遊水地帯やデルタ地帯の新田開発が進められました。
また、「紀州流」は、利根川のような水量の多い川から水を引いてくることで用水を確保し、溜井を廃止しました。
鴻沼では先に完成していた見沼代用水路の西縁から水を得ています。
(見沼代用水路は水量の多い利根川から用水を引いています)
(クリックすると拡大します) |
![]() (クリックすると拡大します) (荒川上流河川事務所が作成した図をもとに作成) |
紀州流の用水 |
紀州流の治水 |
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