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更新日付:2024年12月25日 / ページ番号:C117519

第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」 展示Web解説 その1

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第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」 展示Web解説 その1

令和6年10月5日から11月24日まで開催していた、第48回特別展「さいたまと近世の天文 -稲垣田龍が見た夜空-」の展示を紹介します。

1. 近世の宇宙観

江戸時代以前の天文学

夜空を見上げると広がる「宇宙」。
現在、私たちが知っている「宇宙」は、地球の外の気が遠くなるほど遠くまで続く空間に星々が浮かんでいる、そんな景色を思い浮かべるでしょう。
しかし、昔の人びとが考える「宇宙」は、それとはまるで異なるものでした。
今回の主要なテーマである近世、江戸時代の宇宙観を知るには、古代の中国まで話が遡ります。

まず、日本における天文学は古代中国からもたらされています。
古代中国には「人間界を含めたこの世のすべてを天が支配している」という「天帝思想」という考え方がありました。
天帝思想によれば、「人間界の支配者となる人物は、天の支配者である天帝から、人間界を支配するように命ぜられた人物である」としています。
このことから皇帝のような「天命を受けて天下を治める者」のことを、「天子」とも呼びました。
天帝は天子へ、天子が行っている政治が良いか悪いか、天災や疫病が発生するかどうか、反乱が起きるかなどの事柄に対し、天体現象や気象現象でメッセージを送ると考えられました。
天子は現象の意味を読み取る必要がありますが、現在でいう「天文占い」のことであり、これを「天文」と呼んでいました。

天帝思想

「天文」とともに、天子の重要な役割とされたのが暦作り、「暦学」です。
これは「観象授時(かんしょうじゅじ)」(天子は天の動きを詳細に観察して暦を発行し、民衆に時を授ける)という考え方に基づくもので、季節の移り変わりを民衆に知らせることで、皇帝は自分こそが天帝からのメッセージを把握している正当な支配者であると宣言していました。

観象授時

古代の天文学は、これら「天文」と「暦学」を中心に考えられており、国家権力と切っても切れない関係にありました。
日本における天文学は、記録上、欽明天皇(きんめいてんのう)14年(553)、朝廷が百済(くだら)に対して医学・易学・暦学の博士を送るよう要請していることが『日本書紀』に記されており、百済を通して中国からもたらされたことがわかっています。
7世紀後半には、「陰陽寮」(おんようりょう/おんみょうりょう)が朝廷内に設置され、天文学は日本でも政治の中心で活用されていくことになります。
(陰陽寮の中心は、安倍晴明(あべのせいめい)を祖とする土御門家(つちみかどけ)が担っていました)

このような歴史をたどったためか、古代の天文学は占いや暦の要素が色濃く、現在の天文学のような「星空の原理を研究する」、いわゆる天体物理学のような考えには至りませんでした。

渋川春海の「貞享の改暦」

日本では持統天皇(じとうてんのう)4年(690)以降、中国から輸入された暦を使用しており、貞観(じょうがん)年(862)以降は「宣明暦(せんみょうれき) 」という暦を800年もの間採用していました。
ところが江戸時代に入る頃には、この宣明暦の予報した天体の動きと、実際の天体の動きとの間に誤差が生じており、当時の暦の基準点だった冬至は2日もずれてしまっていました。

渋川春海(しぶかわはるみ)(1639~1715)はその誤差を修正して改暦を行った人物であり、この改暦を「貞享(じょうきょう)の改暦」と言います。
誤差が生じた主な原因は、宣明暦は中国で作成されたものであり、日本と中国の間の「里差」(=経度差)が考慮されていなかったことでした。
渋川春海は元や明の時代に使用されていた「授時暦(大統暦)」をもとに、里差の分を計算し直し、日本初の国産の暦である「貞享暦」が誕生しました。
(貞享の改暦については下部にありますリンク先のページで詳しく解説されています)

貞享の改暦以降、幕府は「天文方(てんもんかた)」という役職を置き、暦の計算を担当することとなりました。 
権力者の特権として行われていた暦の作成が朝廷から幕府に移ったことは、政治的にも大きな意味を持ちました。
(暦の発行については、引き続き土御門家が担当しました)

江戸時代という平和な時代に入って多くの知識人が天文について研究するようになったことに加え、世界との窓口であった長崎を通じて西洋の知識が少しずつ入ってくることで、江戸時代の科学は発展していくことになります。

日本で使用された暦

江戸時代中期の天文学

日本初の国産の暦による改暦が行われた江戸時代中期には、さまざまな天文書が世に出ています。
『天文図解』は元禄(げんろく)元年(1688)に井口常範によって著され、翌年に刊行された日本の天文書としては早期のもので、全5巻からなります。
1巻は天文についての総論、2巻から4巻は中国の「授時暦」を中心とした暦学、5巻は太陽や月や五星(水星・金星・火星・木星・土星)の位置の計算の仕方が書かれています。
一般庶民も入手できたものであり、幕府天文方や暦作成者以外の民間の知識人の間でも天文学が盛んに研究されていたことがわかります。

天文図解
衆星図
『天文図解』(全5巻) ※写真は一部
元禄2年(1689) 史跡足利学校蔵
(下写真は1巻の「衆星図」で、北極星を中心とした中国星座が描かれている)

日本最古の学校といわれる足利学校(栃木県足利市)でも、天文学が学ばれており、数多くの書籍の中に天文書が残されています。
足利学校で教えられていた「四書五経」のうち、易経・易学の別伝として占星術が扱われており、『天文図解』や渾天儀(こんてんぎ)(下写真)が活用されたのだと考えられます。

渾天儀

渾天儀
江戸時代中期 史跡足利学校蔵・足利市指定文化財

渾天儀とは

「渾天儀」とは、紀元前1世紀頃に中国で発明された観測装置です。
丸い天が地を包み、地は卵黄のように内部に位置し、天は大きく地は小さいという「渾天説(こんてんせつ)」を具現化し、天球上の天体の動きを模して作られました。
渾天儀の円環は、水平・赤道・子午線の平面に固定された「六合儀(りくごうぎ)」、太陽や月の通り道を表す「三辰儀(さんしんぎ)」、東西・南北に回転させ、小さな穴から天体を除いて経緯度を測る「四遊儀(しゆうぎ)」という3つの部分から成ります。
「六合儀」を除く円環は回転するように組み合わされていて、星に照準を合わせて位置や高度を観測し、確定するために使われました。
渾天儀は「渾儀(こんぎ)」とも呼ばれました。

渾天儀は用途によって様々なつくりのものがありました。
下は葛飾北斎(1760~1849)の富獄百景の一つ、「浅草鳥越の図」です。
天明(てんめい)2年(1782)10月から幕末まで存続した浅草天文台を描いたもので、「三辰儀」のない渾天儀が観測用に使われていたことがわかります。

浅草鳥越の図
『富岳百景』より「浅草鳥越の図」
国立国会図書館デジタルコレクション

また、今回の展示で史跡足利学校よりお借りした渾天儀は、六合儀の内側に星座を描いた天球が取り付けられており、教材として使うために作られたものです。


その2 稲垣田龍の世界(前編)

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