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更新日付:2026年5月11日 / ページ番号:C121188
令和8年3月20日から6月7日まで開催する、第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 の展示内容を紹介します。
江戸時代のさいたま市域には、中山道(なかせんどう)と日光御成道(にっこうおなりみち)という、参勤交代の大名なども通行する主要な街道が通っていたほかに、周辺の城下町や宿場町、市場町、村々、寺社、陣屋などを結んだ道がありました。これらの道は、行き先の地名を取って「〇〇道(みち)」と呼ばれることが多く、住んでいる人たちの生活に使われたのはもちろん、他にも役人の巡回や商品の流通、寺社への参詣など、様々な目的に利用されていました。分かれ道などには、道行く人々のために多くの道標が建てられ、一部は現在でもその姿を見ることができます。
今回の展示では、さいたま市内の江戸時代の主な道筋について、どのような目的で利用されていたのかという点に注目して紹介します。中には、皆さんがいつも通っている道もあるかもしれません。かつて多くの人々が行きかった道筋やその面影を、ぜひ見つけてみてください。
江戸時代の道を分類するとき、良く使われる分け方のひとつは、「五街道」とそれ以外の道に分ける方法です。五街道は「東海道」「中山道」「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」の5つの街道で、幕府が置かれた江戸(現在の東京)と、天皇が住む京(現在の京都)や、各地方との往来のために整備されました。万治2年(1659)には幕府に「道中奉行」の役が置かれ、五街道と、これに付属する「脇往還」、各街道にある宿場の整備や運営を担当するようになりました。これらの街道は、各地の大名の参勤交代や、幕府の公用の通行に使われる重要な道路でした。
さいたま市内の道のうち、道中奉行が担当していたのは、市内を南北に通りぬける「中山道」と「日光御成道」です。中山道は五街道の一つとして、京と江戸とを、信州(現在の長野県)の木曽地方を経由して結ぶ街道で、加賀藩(現在の石川県・富山県)の前田家をはじめ、沿道に領地を持つ各藩の大名が参勤交代の際に通行しました。
また、日光御成道は、徳川家康を祀った日光東照宮に、歴代の将軍が参拝するときに使われた街道です。将軍は日光への往復の途中で岩槻城に宿泊しましたが、日光道中は岩槻を通らないため、岩槻城へ向かうための脇往還として整備されました。参勤交代の際に通行するのは岩槻藩のみでしたが、将軍が日光を訪れるときには大行列が通行しました。
道中奉行が担当する街道以外の道は、幕府では「勘定奉行」が担当し、実際の維持管理は沿道の領主や代官に任されました。こうした道も、各地の城下町や宿場町、周辺の村々や河岸場、寺社などを結び、人々の暮らしを支えてきた重要な道路です。今回の展示では、このような道に注目します。
現在では、都道府県や市町村などの行政のための区画と、その土地の地名はほぼ同じものとして考えられていますが、江戸時代には、国、郡、村や町などの地名やその範囲と、その土地を誰がどのように支配しているのかは一致していませんでした。
各地域の支配の形は、大きく分けて幕府の領地(幕領(ばくりょう))とそれ以外に分けられます。幕領には郡代や代官といった役人が派遣され、実際の行政を行いました。幕領以外の土地は、幕府から領地を与えられた大名や旗本、寺社などの領主が支配しました。同じ国や郡の村々が複数の大名や旗本などの領主に分けられて支配されるのはもちろんのこと、場合によっては一つの村が複数の領主に分かれて支配される(「相給(あいきゅう)」などと呼ばれた)こともありました。
こうした様々な支配を受ける中で、その地域のようすを表した地図も、目的に応じて様々なものがつくられました。特に、領主にかかわらず広い地域の状況を把握するために幕府が作らせた「国絵図」や、代官や領主が自分の支配する村のようすを把握するために作らせた「村絵図」などは、公文書として保存されたこともあって、現在でも数多く残されています。
また、江戸時代の中期以降になると、庶民の間でも寺社への参詣や温泉での湯治など、長距離の旅行を行うことが次第に増え、現在の旅行ガイドに相当するような絵図も販売されるようになってきました。
幕府は江戸時代を通じて4回(慶長・正保・元禄・天保)、全国の「国絵図」の製作を命じました。これは支配のためのものでしたが、江戸時代の中期以降には、民間の版元も各種の一般向けの国絵図を出版するようになっています。こうした絵図は、現代の地図のように精密な測量を行って作ったものではなく、場合によっては紙面にあわせて大きく変形させて描かれることもありますが、当時の村々や、それらを結ぶ道筋が描かれていることもあり、当時の状況をうかがい知ることができます。
天保9年(1838)国立公文書館蔵(全体をデジタルアーカイブで見る)
幕末期の武蔵国を描いた国絵図です。現在のさいたま市域には、中山道と日光御成道のほか、両街道の間を結ぶ区間の赤山道、大宮から与野を通って羽根倉に向かう道、荒川の東岸の大囲堤に沿って早瀬河岸(現戸田市)から平方(現上尾市)、石戸宿(現北本市)を通って鴻巣へ向かう道が描かれています。この荒川沿いの道は、正保年間(1640年代)の国絵図にもみられるもので、中山道や日光御成道と同様に一里塚が描かれています。一里塚が実際に設けられていたかどうかは定かではありませんが、幹線道路として扱われていた様子がうかがえます。
江戸時代中期 埼玉県立図書館蔵(全体をデジタルアーカイブで見る)
見沼干拓前の様子が描かれている武蔵国の絵図です。天保国絵図にみられる道に加えて、市域南部の大牧から太田窪、大谷場にかけて複数の道が描かれているほか、日光御成道から分かれて原市へ向かう道や、岩槻から桶川に向かう道も描かれています。
嘉永元年(1848)国立国会図書館蔵(全体をデジタルアーカイブで見る)
中部地方から関東にかけての地域を描いた絵図です。五街道や脇往還の道筋と宿場のほか、主な町場と、それぞれを結ぶ道筋の距離が描かれています。道筋は直線状に描かれていて、実際の道の経路とは異なっていますが、当時の町と町の結びつき方を知ることができます。さいたま市域周辺では、城下町である岩槻と川越が大きく描かれ、そのほかに宿場である浦和、大宮、大門などや、市場町である与野、原市などが見て取れます。また、岩槻と粕壁の間にある「ジオンジ」(慈恩寺)など、坂東三十三観音霊場の札所も描かれており、どのような人がこうした絵図を必要としたのか想像させられます。
上に挙げた国絵図等に描かれている道筋を、明治時代の「迅速測図」による地図の記載を参考に、現在の地図に示したものです。(赤枠はさいたま市の範囲です)
江戸時代の「村」は、人口数百人ほどのまとまりで、それぞれに名主、組頭、百姓代などの村役人が任命され、支配を受けるときの基礎的な行政単位とされました。幕府や領主は、村々のようすを知るために、必要に応じて絵図を作らせました。こうした絵図を「村絵図」と呼んでいます。
村絵図には、村内の田畑や屋敷、寺社のようす、主な道、隣り合う村など、目的に応じて必要な情報が描かれました。田畑の収穫量、寺社の明細など詳しい情報は、絵図とは別に「村明細帳」という文書がつくられました。これらの絵図や明細帳は、現在では、当時の村の様子を知ることができる貴重な資料になっています。道筋についても、その村の範囲だけにはなりますが、細かい経路や道幅、道沿いがどんな様子だったかを知ることができます。
享保2年(1717)当館蔵(全体をデジタル展示で見る)
丸ヶ崎村は、現在の見沼区大字丸ヶ崎、丸ヶ崎町、東大宮六丁目、春野付近にあたります 。一つの村が複数の領主に支配されている「相給村」で、この絵図では村内のどの家がどの領主に属しているかを色分けで示しています。家の所属は入り組んでおり、領主がどの家を支配しているかを把握するときには、こうした絵図による説明がわかりやすかったのでしょう。
また、沼や川、道、畑、田、馬草場などの土地利用も色で区別されています。この絵図は見沼代用水がつくられる前のもので、村の南側(絵図の下側)には水源となっていた溜井があります。絵図がつくられてから11年後、享保13年(1728)に見沼代用水が完成すると、この溜井も干拓されて新田になっています。
隣の村へと続く道には「瓦吹村道」「堀崎村道」「嶋村道」「深作村道」「馬込村道」など行先が書かれているほか、右端(東側)の「おがのら道」は、深作村の小字「岡野落(おかのら)」へ続く道であることを示しています。
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その2(編集中)
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