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更新日付:2024年3月12日 / ページ番号:C077139
浦和博物館の建物は、明治の初めにつくられた埼玉県師範学校の校舎「鳳翔閣」の中央部分、想像上の鳥である鳳凰(ほうおう)に例えるならば、その胴体の部分の外観を忠実に復元し、一部当時の資材も活用して、昭和47年(1972)に完成したものです。
明治11年(1878)に現在の高砂3丁目埼玉会館のある地に新築された埼玉県師範学校の校舎は、開校直前の8月30日、明治天皇の北陸東海地方巡幸の第一夜の行在所(あんざいしょ)として使用されるにあたり、太政大臣・三条実美(さんじょう さねとみ)によって「鳳翔閣」と命名されました。
木造2階建て、床面積約1,498平方メートル。
中央部分(胴部)に翼棟部が繋がれた全長約67.3メートルの細長い左右対称の建物で、教室等は計12室ありました。
当時の新聞は、「校も二層の西洋風にて宏壮目を驚かすばかりなり」(『東京日日新聞』)と伝えています。
また、浦和博物館の門柱は、大正から昭和40年代まで、現在の仲町公民館(浦和区)の地にあった「浦和町(市)公会堂」のものです。
同公会堂は「恭慶館」と名付けられ、渋沢栄一書の同名の額が100畳敷きの大広間に掲げられていました。
その額も浦和博物館所蔵となっています。
なお、埼玉県師範学校は「埼玉サッカー発祥の地」でもあり、鳳翔閣は浦和の歴史のシンボルとして、Jリーグで活躍している浦和レッドダイヤモンズのエンブレムにも用いられています。
→浦和レッドダイヤモンズHP
さいたま市指定有形文化財(書跡)に指定されています。
行在所となる埼玉県師範学校を「鳳翔閣」と命名した三条実美によって揮毫されたものです。
竪額は浦和博物館で、紙本墨書の原本は埼玉大学で保存されています。
行書で「鳳翔閣」と大書され、左下に「太政大臣 三條実美書」とあります。
埼玉県師範学校2階のバルコニーに掲げられてあったことが、当時の新聞に記載されています。
明治初期の鳳翔閣の屋根瓦です。
屋根のどの部分に用いられていたのかはわかりませんが、3点で1組のものと考えられています。
これまでこの屋根瓦は埼玉県立浦和図書館に保管されていましたが、平成27年3月をもって同館が閉館したことに伴い浦和博物館に寄贈されました。
鬼瓦は正面中央部分が欠損しておりどのような模様があったか不明です。
左右に雲を型取った模様があり、また、台座には3つの花菱の模様が施されています。
和釘も、鳳翔閣で使用されていたものです。
これらのほかに、鳳翔閣の階段の親柱も所蔵しています。
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