ページの本文です。
更新日付:2024年2月21日 / ページ番号:C084569
幕末の開国によって、横浜港から諸外国に向けて生糸が積極的に輸出されることとなります。明治5年には、機械製糸による生糸の生産量拡大と品質向上を目指して官営富岡製糸場が群馬県富岡市に建設されるなど、製糸業は近代日本が目指す「富国強兵 殖産興業」の大きな柱となっていきます。
官営富岡製糸場(群馬県富岡市)
富岡製糸場之図(画像提供:国立大学法人東京農工大学科学博物館)
この富岡製糸場には日本各地から工女たちが集められますが、彼女たちは技術習得後は故郷へ帰り、各地で指導的役割を果たしていきます。後に富岡製糸場での出来事を『富岡日記』として著した和田英(わだ えい)もその一人で、帰郷後、日本初の民間蒸気製糸工場といわれる六工社(長野市松代)で活躍しています。このようにして、製糸業は明治時代以降の日本の重要な産業へと発展していきます。
六工社跡(長野市松代)
なお、富岡製糸場の初代場長は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれているように渋沢栄一のいとこの尾高惇忠(おだか あつただ)です。
埼玉県でも県が製糸会社の設立を勧奨し、明治30年代になって製糸業が盛んだった長野県から業者が進出するようになり、ようやく機械製糸の普及が進んでいくことになります。
与野での本格的な製糸業は比較的遅く、岡谷など信州資本の製糸工場が明治末期以降になって進出してきますが、それ以前は与野の地場資本による小規模な製糸工場のみでした。明治36年に、糸繭商を営む加藤幸太郎氏が旭館加藤製糸場を設立(本町西)、明治39年には大木金右衛門氏が大木製糸場を設立しています(本町東)。また、明治40年には、大木伊助氏が与野館製糸場を開設(本町西)しますが、いずれも地場資本であり、資本力に弱かったため短命に終わっています。
与野館製糸場工場外観(画像提供:さいたま市アーカイブズセンター)
看板には「与野館製糸工場」「生繭買入所 与野館」と記されています
一方、明治44年になって初めて信州出身の渡辺綱治氏が上落合に進出し、渡辺組大宮製糸場として操業を開始することになります。
渡辺綱治氏と輸出生糸
渡辺組大宮製糸場繭乾燥所(昭和18年)
渡辺組大宮製糸場の生糸商標(画像提供:横浜開港資料館)
「WATANABE」の文字や張り子の犬の背中に渡辺家の家紋「三ツ星一文字」が描かれています
渡辺綱治氏の経営は大成功し、大正6年の段階では釜数670、工女786人を抱える県内最大の製糸場に成長しています。
渡辺綱治氏は製糸業経営の傍ら、与野の街づくりに多くの貢献をし、与野町役場の建設に尽力したほか、日赤病院(現さいたま赤十字病院)の与野への誘致のために、土地や多額の建設費の提供を行っています。信州出身でありながら、与野に移り住み、与野のことをひたすら大事に思っていたといえます。
大正から昭和初期には与野町会議員や与野町長を務めるなど、与野の町政にも多大の功績を残しています。
開設当時の日赤病院(昭和9年)
しかし昭和に入ると、不況や軍事工場への転換のために製糸業は次第に日本の近代産業を主に担う地位を追われ、渡辺綱治氏の死後の昭和18年、渡辺組大宮製糸場は閉鎖され、跡地では飛行機の部品製造を行う田中航空計器株式会社が製造を開始することになりました。
同社も現在では移転し、跡地には大きなマンションが建設されて、往時を偲ぶものは無くなっています。
田中航空計器株式会社(昭和47年撮影)
なお、大宮へ進出した信州資本の片倉大宮製糸所は片倉製糸として戦後まで営業を続けていましたが、昭和46年に営業を中止しています。現在のさいたま新都心駅東口の商業施設「コクーン」一帯に位置していました(コクーンは英語で繭を意味します)。
また、大宮区役所一帯の「山丸公園」は大宮山丸製糸所のあった場所です。
さいたま新都心駅東口のコクーン
前
その32 「新しい「与野町」・「与野市」の誕生」
後
その34 「宇宙飛行士若田光一さんを遡ること200年、空を見上げた与野の天文研究家-稲垣田龍」
教育委員会事務局/生涯学習部/博物館
電話番号:048-644-2322 ファックス:048-644-2313