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更新日付:2024年2月21日 / ページ番号:C080019
明治16年7月、上野と熊谷を結ぶ日本鉄道第一区線(現在のJR高崎線の一部)が開通し、浦和停車場が設置されました。
その後、東北方面に通じる分岐のため、大宮停車場が明治18年に開設されることになりますが、与野はルートから外れ、停車場の開設もありませんでした。
大宮駅待合所正面
当初、鉄道の不通過による与野への経済的悪影響はあまりなく、依然として荒川の羽根倉河岸を使用した舟運が活発でした。
明治25年に大久保村長が埼玉県知事に出した「道路修繕ニ付具申」には、羽根倉河岸の回漕店で扱う荷物は1年で3万駄に及び、その多くが与野町の商品であり、近年は荷積馬車の運送がにわかに増加していると記されています(『与野市史』近代史料編)。
しかし、浦和・大宮駅設置に伴う流通構造の変化に対応するため、与野では新駅開設活動が起こり、大正元年11月1日、与野停車場が誕生しています。
その時の内閣総理大臣は桂太郎、外務大臣は小村寿太郎、大蔵大臣は桂太郎(兼務)、海軍大臣は斎藤實、逓信大臣は後藤新平という教科書でもおなじみの人物が承認の意味の花押(かおう)を毛筆でしたためています。
与野駅開設が認められた際の文書(画面左側)
(国立公文書館デジタルアーカイブから)
町の有力者による運動に町民も加わり、地元民の土地提供により、明治44年に地元住民310名以上が国に対して与野駅開設の請願を出した結果、浦和・大宮間にある大原信号所を拡張して与野停車場を設置することに決定したものです。
地元住民が提出した意見書の内容(画面左側)
(実際の意見書は文字不鮮明につき、ここでは掲載していません)
(国立公文書館デジタルアーカイブから)
駅舎は瓦葺きの平屋で、駅前は人力車が止まるのどかな風景でした。
開設当初の与野駅風景(絵ハガキから、西口)
翌年の与野駅発車時刻表によれば、上りは午前6時台から午後9時台まで17本、下りは午前8時台から午後9時台まで15本で、それぞれ1時間に1本程度の停車しかありませんでした。
与野駅発車時刻表(大正2年5月改正)
ところが、昭和7年に電化され、その1年後には与野は「駅前付近は素晴らしく変つて、シイクな文化住宅が百余戸建てられ、県では珍しいモダン風景を見せている」「(地価も)坪十四、五円が最高であったものが昨今では廿円から廿五円位にハネ騰つた、それでもまだ買手がくるので地主は大喜びである」(『新編埼玉県史』資料編22)という状態になり、駅前では急速に宅地化が進行し、電化前の年間乗客数約30万人に対して、5年後の昭和12年には2倍の約60万人にのぼることになっていきます(『さいたま市史』鉄道編)。
与野駅西口(昭和9年)
昭和33年には東口も開設されています。
与野駅東口開設(昭和33年)
西口駅前通り(昭和33年)
西口駅前(昭和45年)
現在では、与野駅の乗車人数は一日平均26,802人で(2019年度、JR東日本ホームページから)、多くの乗客で毎日賑わっています。
西口駅前(現代)
西口駅前通り(現代)
蛇足ですが、与野駅が開設された大正元年には、 1月1日に孫文が南京で中華民国の成立を宣言し、4月15日には北大西洋でタイタニック号が沈没、5月5日にはストックホルムで夏季オリンピックが開催されて、日本がオリンピックに初参加しています。
また、7月30日には明治天皇が崩御し、日にちは不明ですが、飯塚市(福岡県)の菓子舗吉野堂があの有名な「ひよ子」発売を開始した年でもありました。
なお、有名な話ですが、駅舎も含め東口全域と西口の駅前は与野(中央区)ではなく、浦和区に属しています。
駅名と所在自治体名が一致しない例は意外と多く、品川駅(港区)、目黒駅(品川区)などがあります。
与野郷土資料館では、「与野駅発車時刻表」や「与野駅(絵はがき)」を展示しているとともに、「与野郷土資料館開館記念図録」でも解説しています。
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