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更新日付:2024年2月21日 / ページ番号:C075189
南鴻沼遺跡は、鴻沼川東側の台地上に広がる低地にあります。
所在地は中央区大戸で、さいたま市役所南側の市役所通りを市役所から西へ行き、「鯛ヶ窪橋」を渡った先の鴻沼川や埼京線の線路との間の低地部分になります(遺跡の場所は下の「地図情報で」)。
↓さいたま市役所
(遺跡遠景(西から、中央奥がさいたま市役所)) (南鴻沼遺跡発掘調査の様子、湿地帯だったことがよくわかる)
南鴻沼遺跡は低地の遺跡だったために、台地上の遺跡では通常土の中で分解されてしまって出土しない木製品が多く見つかっています。
例えば、丸木舟や櫂状木製品、杭、編組製品(へんそせいひん)などです。
このうち、第1号丸木舟は長さ360cm、幅52cmほどで、クリの木を使用していて、およそ3900年前から4000年前の縄文時代後期のものと考えられます。
(第1号丸木舟、上から下面、右側面、上面、左側面。最下段左は前面、右は後面)
また、櫂状木製品は舟のオールと考えられるもので(上の丸木舟とセットになるものではありません)、長さ約60cm、幅9cmで、縄文時代後期のものと考えられます(画像はこちら)。
編組製品は植物を編んだり、組んだりして作られたカゴや敷物のことです。
南鴻沼遺跡では2点出土しましたが、このうち第1号編組製品と呼んでいるものは、タケやササをもじり編みで編んだ、魚などを捕獲する筌(うけ)ではないかと考えられています。
今からおよそ4600年前の縄文時代中期のものです。
(編組製品)
与野郷土資料館展示web解説(その16)「与野を代表する遺跡・南鴻沼遺跡(その1)「掻き傷のあるウルシ」」(こちらからご覧になれます)でもご紹介したように、南鴻沼遺跡ではウルシの木を栽培、利用していましたが、与野の縄文人たちはウルシだけではなく、クリやタケなど多くの植物をうまく利用していたのでしょう。
そんなことを証明してくれるのがこの南鴻沼遺跡です。
与野郷土資料館では、ここで紹介した丸木舟や櫂状木製品を展示しています。
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