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更新日付:2024年2月21日 / ページ番号:C074490
軍忠状(ぐんちゅうじょう)とは、後の恩賞のために、戦さの際の参陣や自分の軍功を記して、主人に提出した文書です。
武蔵武士の一人で、現在の日高市を本拠とする高麗経澄(こまつねずみ)も南北朝時代の観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の際に7項目からなる軍忠状を作成しています。
その中に、「羽祢蔵」(羽根倉)という地名が見られます。
(正平7年高麗経澄軍忠状、個人蔵)
(大きいサイズの写真や翻刻は下のダウンロードファイルで)
足利幕府の執事高師直(こうのもろなお)をめぐって足利尊氏と弟直義は不和になり、抗争を繰り返しました。
これを観応の擾乱と呼び、武蔵武士も両派に分かれて争い、東国が戦さの舞台となりました。
高麗経澄は尊氏方としてこの戦さに参加し、観応2年(1351)12月に「羽祢蔵」で直義方の難波田九郎三郎らを打ち破りました。
羽根倉は浦和と志木を結ぶ羽根倉橋にその名を残すように、鎌倉街道が入間川(現荒川)を渡る地点に位置しており、交通上の要衝でした。
ここを守ろうとする難波田氏と鎌倉へ進軍しようとする高麗経澄が戦ったわけです。
難波田氏とは、入間川(現荒川)の対岸、富士見市に「南畑」という地名があることから、この地域の豪族と考えられています。
(羽根倉の渡し。平成12年撮影、個人蔵)
(桜区・塚本の八幡神社入口) (奥には、羽根倉合戦の戦死者を祀ったという伝承のある塚が残っています)
(難波田氏館跡の碑、富士見市)
正平7年高麗経澄軍忠状によれば、鎌倉殿(足利基氏)に呼応して直義方の上杉憲顕討伐のため宇都宮に馳せ参じた高麗経澄は、観応2年12月に「鬼窪」(白岡市)で挙兵し、「羽祢蔵」や「阿須垣原」(比定地については諸説あり)、府中、小沢城、足柄山、伊豆国府(三島市)を経て鎌倉に入り、翌正平7年(1352)正月に足利幕府に軍忠状を提出しています。
明記はされていませんが、その進軍ルートから、高麗経澄は与野地域を通過して羽根倉へ向かったものと推測されます。
(桜区・上大久保の鎌倉街道。高麗経澄は与野からこの道を通って羽根倉へ向かったのかもしれません)
(小沢城跡、川崎市) (足柄山、静岡市小山町 小山町観光協会写真提供)
この文書の末尾に別筆で「承了(花押)」とあることにより、この軍功は後に認められたことを意味しています。
なお、南北朝時代の武蔵国は足利尊氏の勢力下にありました。
そのため、武蔵国では一般に北朝年号を使用していますが、観応2年10月から翌年閏2月まで、尊氏は直義追討のため南朝に降り、その間だけ南朝年号を使用しています。
この軍忠状に記された正平7年という南朝年号はこうした事情によるものです。
与野郷土資料館では「正平7年高麗経澄軍忠状」(レプリカ)を展示しているほか、『与野郷土資料館開館記念図録』でも観応の擾乱について触れられています。
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