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更新日付:2026年6月17日 / ページ番号:C131195
令和8年3月20日から6月7日まで開催した、第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 の展示内容を紹介します。その4はこちらです。
明治維新によって幕府が倒され、新政府によって急速な近代化が始まると、各地の道もその姿を変え始めました。大きな変化のひとつは、江戸時代には幕府により規制されていた「車両」の通行が盛んになってきたことです。明治時代の初めには主要な街道での郵便馬車の運行が始まり、また大八車や荷車が都市部以外でも使われるようになりました。道も車両が通れるように、幅を広げたり、坂をゆるくしたりするなどの改良が進められました。元の道筋のままで改良が難しいところでは、道筋の付け替えなども行われています。
また、地方行政を行う組織として「県」が置かれ、県庁がつくられたり、新たな交通機関として鉄道が開業したりすると、県庁所在地や各地の駅などへ向かう、新しい人の流れも生まれ、それにあわせて新しい道もつくられるようになりました。さいたま市内でも、中山道などが改めて整備されるとともに、大宮-粕壁(現在の春日部市)間、浦和-岩槻間などに新たな道がつくられました。
さらに昭和初期からは、各地で「耕地整理」や「区画整理」という、地域全体の土地の区割りをつくり変える事業が行われるようになりました。これらの事業地域内では、道筋も付け替えが行われることが多く、すでに役割を終えていた古い道筋は、完全になくなってしまうものも増えました。
現在では、住宅街での道幅は緊急車両が通れるように4m以上に広げることが法律で定められており、江戸時代のままの姿を残す道を見つけることは難しくなっています。しかし、地形に沿った道の形、沿道の道標やいろいろな史跡など、かつての面影をしのぶことができる道はあちこちにあります。皆さんが普段通っている道にも、実は長い歴史があるかもしれません。

明治10年代に測量された「迅速測図」に基づいて、当時の「国道」「県道」「里道」の扱いになっている道と、近世以前の絵図などから重要性があると思われる道をトレースしたものです。背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用しています。道の位置は現在の地形図に基づいているため、背景地図に使用した迅速測図の道の位置とはずれている部分があります。
「迅速測図」については第36回企画展「地図で見るさいたまの近代」の展示Web解説もご覧ください。また、「歴史的農業環境閲覧システム」 ウェブサイト内の「比較地図」では、迅速測図と現在の地図や空中写真などを並べて表示し、比較することもできます。
道標は、慣れない道を行く人に案内をするためのものです。道標があるということは、その道を、その土地に詳しい人だけでなく、他所から訪れてきた人、現在でいうところのインバウンド旅客が通ることが想定されていたものと考えられます。中山道のような、当時であれば誰でも知っており道筋もはっきり整備されていた主要な街道よりも、地元の人以外にはわかりにくい脇道の分岐点などの方が、道標の必要性は高かったと思われます。
また、現存する道標はその多くが、石仏など信仰に関する石造物に刻まれたものです。その理由としては、馬頭観音や庚申塔、地蔵などは元から村境や分かれ道などの道沿いに建てる習慣があったこと、こうした信仰や供養が、他者への善行である道標との親和性があったこと、寺社への道標については参拝者を呼び込みたい寺社などが道標の設置に協力したであろうこと、近代以降も仏像や供養塔は単なる道標に比べて役割を失いにくく、撤去・廃棄されにくかったことなどが考えられます。現存するもの以外にも、かつてはもっと多くの、いろいろな種類の道標があったのかもしれません。
今回の展示のための調査を通じて、市内には、江戸時代につくられた、道標となる文言が彫られている石造物が約200基現存していることが確認されました。この調査では、基本情報として、ウェブサイト「近世以前の土木・産業遺産」(岡山大学名誉教授 馬場俊介様)の内容を参考とさせて頂きました。同ウェブサイトでは、現存する江戸時代以前の様々な土木構造物の一覧を作成されており、その中に道標も含まれています。展示における道標の呼び名についても、こちらの内容に準じています。
現存する道標は、博物館等に保存されているもの、社寺の境内に移設されているもの、路傍の小堂などに安置されているもの、ほとんど放置されているものなど、様々な状況に置かれています。今回の展示では、見学しやすい道標や、現存しない道標の一部を紹介しました。

南辻の聖観音像道標岩槻区南辻(2025年撮影)
日光御成道がかつて元荒川を渡っていたところの少し北、元荒川沿いに東に分かれて春日部方面に向かう道筋との分かれ道にある聖観音菩薩像です。正面に観音像を彫り、左側に「是より右 かすかへみち」、右側に「是より左 ぢをんじ道」(慈恩寺道)と記しています。元禄8年(1695)につくられた、市内に現存する道標の中でも相当古いもので、表面は風化が進んでいます。

上峰の庚申塔道標 中央区上峰一丁目(2025年撮影)
宝永8年(1711)につくられた庚申塔です。 正面に青面金剛像を彫り、左側に「これより江戸みち」、右側に「これよりかうしうみち」(甲州道)と記されています。現在は新大宮バイパスの上峰交差点に他の像と一緒に置かれていますが、文面から、かつては羽根倉道から南方に道が分かれるところにあったのではないかとみられます。市内に現存する道標は19世紀以降のものが多く、18世紀初頭のものはかなり古い事例です。
深作の供養塔道標・馬頭観音道標見沼区深作(1980年代撮影)
現在の春岡小学校南側付近の、土地区画整理事業が行われる前の風景です。分かれ道に置かれている石碑は2つとも道標です。右の供養塔は元文3年(1738)のもので、正面に「右 大みや道 左 大門 江戸 江之道」と記されています。左の馬頭観音は天保11年(1840)のもので、右側に「此方大ミや江」、左側に「此方 大門 江戸 道」と記されています。土地区画整理事業に伴って撤去され、現在は覚蔵院(見沼区春岡二丁目)の門前に保存されています。
大谷口の庚申塔道標緑区大谷口(2026年撮影)
赤山道から谷を挟んで一つ西側の尾根を通る道(県道1号さいたま川口線旧道)沿いにある庚申塔です。明和7年(1770)のもので、左側の尾根道の方には「従是左 千住道」、右側の谷に下る道の方には「従是右 戸田道」と記されています。

本町東の秋葉・石尊道標中央区本町東五丁目(2025年撮影)
中山道から分かれた赤山道が与野町に入り、本町通りに突き当たる少し手前の地蔵尊の脇に置かれている道標です。寛政8年(1796)につくられたもので、正面に「右 秋葉大権現 左 石尊大権現」と記されており、秋葉山と大山を案内する内容です。現在は赤山道に面して立っていますが、もとは与野町の本町通りの西側に面して建てられていたのでしょう。

西堀の三菩薩像道標桜区西堀一丁目(2025年撮影)
文化4年(1807) につくられたものです。正面と左右に菩薩像を彫刻し、その下には道標として、正面に「西 はねくら 川こへ ミち」、右面に「南 わらひ 江戸 道」、左面に「北 よの あきは 道」と記されています。現在は中浦和駅西方の鴻沼用水西縁の橋のたもとに置かれており、地域の方によって維持されています。文面から、かつては近隣の古道の丁字路付近にあったのではないかとみられます。

常盤の庚申塔道標浦和区常盤一丁目(2026年撮影)
中山道浦和宿の慈恵稲荷神社にある、天保13年(1842)につくられた庚申塔です。右面には道標として「富士山 大山 引又 道」と記されています。浦和宿から西側へ分かれる道筋は、「浦和宿絵図」などにもにいくつか描かれており、元々はそのうちのどれかの分かれ道に建てられていたのではないかと思われます。
膝子の庚申塔道標見沼区膝子(2026年撮影)
弘化4年(1847)につくられた庚申塔で、 現在は膝子八幡神社の境内に置かれています。道標として、向かって左側に「向 明けん いわつき道 左 南部 十王道」と記されています。「明けん」は綾瀬川の妙見河岸、「十王」は南中野にある十王尊を示しており、元々は日光御成道から西へ分かれる道があったところに建っていたようです。

村国の庚申塔道標岩槻区村国(2025年撮影)
村国村(現在の岩槻区村国)の元荒川の西岸に沿った道沿いにある、安政2年(1855)につくられた庚申塔です。元荒川には、この付近に対岸の大野島村(現在の岩槻区大野島)へ渡る渡し船があったようで、渡し場への道の分かれ道だったのかもしれません。右面には、慈恩寺と野島地蔵尊への道標として、「此方 じおんしミち 一り三丁」、「此方 のしまミち 十五丁」と記され、写真にあるようにそれぞれの上には指さす形の手が彫られています。左面には、「いわつきみち」と記されています。
東大成町の道標北区東大成町一丁目(2026年撮影)
中山道から西側に道が分かれていたところにある道標です。安政7年(1860)のもので、 正面に「大山 御嶽山 よの 引また かわ越 道」と記されています。土地区画整理事業が行われるまでは、この場所から普門院(大宮区大成町)の東側を通って与野に通じる道があり、大山や御岳山(今の東京都青梅市)へ参詣する人の往来があったことがわかります。
末田の道標岩槻区末田(2026年撮影)
野島村(現在の越谷市野島)と末田村(現在の岩槻区末田)の境の道沿いにある道標です。正面に「橋渡左 野島地蔵道 十丁」、右面に「右大門」、左面に「東越ケ谷壱り 北粕壁壱り」とあり、野島地蔵尊への参拝者への案内を意図したものと思われます。年号は不明です。
上尾市無形民俗文化財活用活性化実行委員会(2014)『上尾の大山灯籠行事』上尾市無形民俗文化財活用活性化実行委員会.
岩槻市(1984)『岩槻市史 金石資料編』岩槻市.
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川口市立文化財センター分館郷土資料館(2014)『赤山陣屋と伊奈氏展』川口市教育委員会.
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越谷市(1977)『越谷市史第1巻 通史編 上巻』越谷市.
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平塚市博物館(2024)『令和五年度春期特別展 ひらつかの古道を行く』平塚市博物館.
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国土交通省関東地方整備局川崎国道事務所『大山街道』https://www.ktr.mlit.go.jp/kawakoku/kawakoku_index017.html
馬場俊介『近世以前の土木・産業遺産』https://www.kinsei-izen.com/
坂東札所霊場会『坂東三十三観音 公式サイト』https://bandou.gr.jp/
(匿名)『鎌倉街道上道埼玉編』http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html
(匿名)『私家版埼玉の石仏』https://saita-seki.jimdofree.com/・https://plaza.rakuten.co.jp/itasan31078/
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