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更新日付:2026年6月16日 / ページ番号:C131074
令和8年3月20日から6月7日まで開催した、第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 の展示内容を紹介します。その3はこちらです。
江戸時代、人々の自由な移動は認められておらず、特に各地の関所を通るためには、住んでいる村の役人などから、身元保証を兼ねた手形を発行してもらうことが必要でした。発行にはそれなりの理由が必要でしたが、認められやすい理由として、信仰心からの寺社への参詣がありました。経済の発展などによって生活に余裕がある人々が現れ、街道や宿場の整備も進んでくると、信仰を深めるため、あるいは余暇を楽しむために、各地の寺社を訪れようとする人々が次第に増えてきました。各地の寺社も、信徒を増やすために積極的に勧誘を行うところもあり、江戸時代を通じて参拝者の数は増えていったようです。また、関所を通らずに移動できる近距離の旅行はより盛んになり、江戸などの大都市周辺を中心に、現代のスタンプラリーのような「札所巡り」のコースが数多く設けられました。
実際にどのくらいの人々が旅をしていたのか、統計はありませんが、例えば伊勢神宮の式年遷宮の際には数百万人、江戸時代中期の秩父札所では1シーズンに約5万人(※1)、江戸時代後期の大山の夏山開きの時期には約10万人(※2)の参拝者を数えるなど、当時の人口(江戸時代後期に全国で約5000万人、江戸で約100万人)と比較すると、こうした参拝旅行は珍しいことではなかったと思われます。もちろん現代に比べると道中の危険は多く、ほとんどの場合は「講」という団体を作って行われていました。
※1:栗原和彦(1997)『歴史をあるく 埼玉の札所めぐり』埼玉県立博物館 p.31
※2:天保2年(1831)の夏山期間、大山の宿坊の一つである「村山坊」への来訪者が858人と記録されており(田中宣一(1982)「相州大山講の御師と檀家:江戸末期の檀廻と夏山登拝をめぐって」日本常民文化紀要8巻2号p.157-191)、当時の宿坊数(約150)を単純に掛けると12万8700人となる。
岩槻区の慈恩寺は、「坂東三十三観音霊場」の第12番札所になっています。この「坂東三十三観音霊場」は、関東地方の観音様を本尊とする寺院から選ばれた33の寺院で修行を行うとご利益があるとするもので、すでに関西地方で定着していた「西国三十三観音霊場」の関東版として設定されたと考えられています。成立の時期は鎌倉時代にさかのぼると考えられていますが、はっきりわかってはいません。成立当時はあくまで修業僧が行うものでしたが、室町時代にはすでに信心深い一般の人々も巡礼を行っており、江戸時代には広く知られていました。巡礼路沿いには道案内のための道標などが、沿道の人々などによって建てられました。
札所は現在の関東地方の一都六県に点在しており、番号順に回ると道のりは約1300kmになります。もちろん一度に回るのは容易ではなく、また番号順に行わなくてもよいとされていたようです。慈恩寺の前後は第11番が岩殿山安楽寺(吉見観音、現在の吉見町)、13番が金龍山浅草寺(浅草観音、現在の東京都台東区)で、この間を歩く巡礼の人も多かったとみられます。慈恩寺の周辺の道標にみられる吉見や江戸の地名も、巡礼者への案内を意識したものなのでしょう。

・江戸時代中期 当館蔵(全体をデジタル展示で見る)
「坂東三十三観音霊場」の札所と巡礼道を示した案内図です。この絵図に記された巡礼路は、一部は番号順にはなっておらず、江戸を中心に西側、東側をそれぞれ一周する効率的な道筋になっており、実際に良く使われた巡礼路を示しているとみられます。現在の地図上に示した札所の位置は右のとおりです。
※背景地図には「OpenStreetMap」を使用

参拝者のためにつくられたと思われる、慈恩寺への道筋を示した道標は、坂東三十三観音霊場の巡礼経路沿いを中心に数多く現存しています。写真は、現在の岩槻区表慈恩寺で、日光御成道から慈恩寺への道筋が右側に分かれるところにある道標です。正面の観音像の下には「是より右 慈恩寺道」と記されています。紀年銘はなく、つくられた正確な年代は不明ですが、江戸時代のものとみられます。このほか市内に現存する慈恩寺への道標を示したものが左の図です。
・2025年12月撮影
※背景地図には「地理院地図」を使用
坂東三十三観音霊場の成立後、関東にはさらに秩父地方にも観音霊場が開かれ、江戸時代には「秩父札所三十四観音霊場」となって、西国・坂東・秩父あわせて百か所の巡礼も流行しました。秩父札所三十四観音霊場は、江戸からは関所を通らずに巡礼できるため、多くの巡礼者を集めました。
また、江戸の近郊などでは、これらの札所の「写し」として、より狭い地域でも盛んに札所巡りが設けられるようになりました。さいたま市域やその周辺では、18世紀には「足立三十三ヶ所観音霊場」(現在のさいたま市北部~鴻巣市南部の範囲)と「足立坂東三十三ヶ所観音霊場」(現在のさいたま市南部~川口市の範囲)が足立郡の北部と南部にそれぞれ開かれ、また秩父三十四ヶ所霊場を写した「足立新秩父三十四ヶ所観音霊場」(現在のさいたま市北部~上尾市の範囲)や、より狭い範囲の「新秩父三十四ヶ所観音霊場」(ほぼ現在のさいたま市見沼区・緑区・岩槻区の範囲)、四国の八十八ヶ所霊場を写した「准四国八十八箇所」(現在のさいたま市北部~加須市の範囲)や、不動尊を巡る「足立百不動霊場」が開かれたりするなど、参拝者を呼び込みたい寺院の思惑もあって札所巡りが盛んに行われるようになりました。こうした狭い地域の札所は、小規模な寺院も多かったことから明治時代の廃仏毀釈によって廃絶してしまったところもあり、現在では巡ることが難しくなっているものもあるようです。
左上写真の資料は「足立坂東三十三箇所観音霊場」の御詠歌(参拝する際に唱える言葉) をまとめたものです。左の版本は天保5年(1834)発行のもの(浦和くらしの博物館民家園蔵)、右の筆写本は明治時代初期のもの(浦和博物館蔵)です。足立坂東三十三箇所観音霊場の第一番札所は、江戸時代には氷川神社別当寺の観音寺でしたが、廃仏毀釈によって廃寺となり、上加村(今の北区日進町)の満福寺に移りました。現在は御詠歌も満福寺のものになっていますが、右の資料には観音寺時代の御詠歌が書かれています。
高木の庚申塔道標(複製)・元資料:寛政3年(1791)個人蔵
西区高木に現存する庚申塔の複製です。通常は市立博物館常設展示室に展示しています。
左側には、「西国 坂東 秩父 百番供養発願成就建之」と記されており、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、合計百箇所の巡礼を達成したことを記念してつくられたものです。 こうした「百番供養」達成を記念した石造物は関東地方の各地に数多く残されており、霊場巡りが盛んに行われていたことがわかります。
石仏としては、観音像ではなく、庚申塔として正面に青面金剛像が彫られています。台石には道標として、「東 大宮 原市」、「西 川越 平方」、「北 上尾 南 阿きは」(秋葉)と記されています。この道標のある場所(右図星印)は、東西方向の道筋から南北に道が分かれている場所で、道に迷いやすいところだったのかもしれません。
※背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用
西区中釘にある「秋葉神社」は、今の静岡県の秋葉山にある秋葉山本宮秋葉神社を勧請して、奈良時代の天平年間に創建されたと伝えられています。秋葉山は元々山岳信仰の対象にもなっており、明治時代に神仏分離が行われるまでは「秋葉大権現」とも呼ばれていました。また、秋葉山で修行した実在の僧といわれる「三尺坊」も、後に信仰の対象となりました。現在の本宮秋葉神社は火の神様である火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオミカミ)を祀る神社となっています。
西区の秋葉神社もかつては同様に神仏習合が行われており、江戸時代には本宮に対して「関東総社」や「指扇三尺坊」とも呼ばれていました。火の神を祀ることから、火伏(火難除け)の御利益があるとして信仰されています。家のかまどや、鍛冶、調理など火を扱う仕事の守り神として秋葉神社のお札(左写真)を祀ることも多く、春と秋の例祭には関東一円から多くの人々が参拝に訪れます。市内では、中山道と神社の間の道筋を中心に、各所に「秋葉みち」などと刻まれた道標がみられます。
今の神奈川県伊勢原市、丹沢山地の南東の端にある大山は、古くから山岳信仰の対象となり、奈良時代には大山寺が開かれて修験者の修行の場となっていました。江戸時代には「雨降山」として干ばつの防止や雨乞いの霊験があるとされ、関東一円から信仰を集めました。大山の「御師」は、江戸時代には各地を巡って講を組織し、講員が参詣するときには、宿坊の手配や祈祷の指導を行ったりして普及に努めていました。
さいたま市域にも多くの地域に「大山講」があり、毎年代表者を立てるなどして参詣を行っていました。参詣は夏の山開きの期間にあわせて行われることが多く、木製の大きな奉納太刀や、頂いたお神酒を持ち帰るための神酒枠などを担いで大山を目指しました。この時期に参拝者が通り抜ける村々では、参拝者のために「大山灯籠」を灯す風習もありました。また、数日かけて大山へ往復する旅は、若者の成長の証となる通過儀礼ともみなされており、15歳になって「初山参り」を済ませると一人前として扱われたとも伝えられています。
現在のさいたま市域やさらに北の地域から大山に向かうときには、与野町(現在の中央区)を通り、羽根倉河岸で荒川を渡り、新河岸川の引又河岸(現在の志木市)を通って甲州街道の府中宿(現在の東京都府中市)に向かう道筋がよく利用されたようで、道沿いには「引又大山みち」など刻まれた道標が、右図のように残されています。
なお、参詣の際は往復とも同じ道筋を通行したとは限らず、江の島の弁財天にもお参りをするなど、近隣の観光地に寄り道をすることも多かったようです。
※左図の背景地図には「OpenStreetMap」を使用
寺社に刀を奉納するのは古来の習慣です。大山への参詣の際には、太刀を模した木刀を奉納し、他の人が奉納した太刀を持ち帰ってくるのが習しでした。村ごとなど、大規模な講で参詣する際には、10尺(3m)以上もあるような太刀を持参し、大山にある「良弁の滝」で水垢離を行って祈祷を受け、また持ち帰るということも行われていたようです。持ち帰った太刀には様々なご利益が期待されており、特に農村部では、雨乞いに霊験があるとされ、村での儀式の際に使われました。
今回展示している太刀は、奥から四ツ屋村(現南区四谷)(天明2年(1782))、田嶋村(桜区田島)(天明3年(1783))、曲本村(南区曲本)(文化14年(1817))にそれぞれ伝来したものです。それぞれの村では、神社で行われる雨乞いの儀式の際に、水に浮かべるなどの形で使用されていたようです。いずれも現在は浦和博物館の所蔵です。
※挿図の背景地図には、特記したもの以外は「地理院地図」を使用した。
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