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更新日付:2026年6月9日 / ページ番号:C130702

第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 展示Web解説 その3

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第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 展示Web解説 その3

令和8年3月20日から6月7日まで開催した、第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 の展示内容を紹介します。その2はこちらです。

第2章 市場・河岸場への道

貨幣が庶民の間でも使われるようになってきた室町時代から、人の集まるところでは、様々なものを売り買いする市場が開かれるようになってきました。領主は市場から税金などを取りたてるかわりに商業を保護し、領内の経済発展や物資の確保に努めるようになりました。
江戸時代に入ると、年貢として納める米や、自給自足の野菜類以外に、販売するための「商品作物」の生産も次第に盛んになり、また酒や醤油、木綿など様々な商品も生産の規模が大きくなり、広い範囲に運ばれて売られるようになりました。江戸などの大都市や、人口の集中する城下町や宿場町へは、食料品をはじめとした様々な商品が、陸路や舟運によって運び込まれ、人々の生活を支えました。こうした商品の輸送や売り買いは、大行列の通行のたびに人馬を提供しなくてはならない街道筋の宿場町では行いにくかったようで、さいたま市域や近隣では、中山道から外れた岩槻、与野、原市、平方、鳩ケ谷などが、物資が集まる市場町として栄えました。舟運には荒川、芝川、見沼代用水(農閑期のみ)、綾瀬川、元荒川が使われました。特に荒川には大型の船が運航し、また秩父などからの木材のいかだ流しも盛んでした。それぞれの川沿いには、各所に河岸場(船着き場)や渡し場が設けられ、多くの人や商品が行きかいました。

原市町と原市道

原市道の経路(推定)原市は、江戸時代には上尾宿よりも人口、軒数ともに多く、木綿の機織りなども盛んな町でした。見沼が干拓される前には、対岸へ行こうとした場合には、南の八丁堤を通るか、北の原市町付近を回っていく必要があり、大宮宿や岩槻町から原市へ向かう道筋は多くの人に利用されました。見沼に流れ込む芝川を渡る地点の地名は「舟橋」と呼ばれており、かつては船の上に板を渡した船橋が架けられていたのかもしれません。また、見沼代用水の開削後は、代用水でも農閑期には通船が行われており、原市町に近く綾瀬川との交差点でもある瓦葺にも河岸があって、舟運で江戸と結ばれていました。
※推定経路図の背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用

「岩槻宿より原市村まで道法絵図」(写真)

岩槻宿より原市村まで道法絵図江戸時代後期 小澤眞明氏蔵 写真提供:埼玉県立文書館
岩槻と原市の間の経路を二通り書き表した絵図です。岩槻の城下町からは西側の丹過口、東側の田中口(日光御成道)の二か所から出発し、馬込付近でいったん合流し、また二通りに分かれて原市へ向かっています。このうちの片方の経路は見沼代用水と綾瀬川が交差する瓦葺を通るもので、見沼代用水の掛樋や、代用水から綾瀬川に水を落とす水門なども描かれています。もう片方の経路は、蓮田から伊奈氏の小室陣屋の前を通るもので、途中の多くの橋なども描かれています。
岩槻原市間の経路(推定)

宮下村絵図(写真)

宮下村絵図宮下村絵図の道筋(推定)江戸時代中期 原資料:埼玉県立文書館収蔵 大塚家文書
宮下村は、現在の見沼区東宮下付近にあたります。見沼代用水がつくられる前のものとみられる村絵図です。中央を南北に通る日光御成道には「日光道」「岩付道」、日光御成道から西に分かれていく道には「原市道」と書かれています。

「岩槻町長芋売場願」

岩槻町長芋売場願文化9年(1812)当館蔵
大和田村ほか26の村の惣代(住民の代表)が奉行所に願い出た書類です。内容は、特産の長芋について、領主などに献上するには質が落ちるものを岩槻町の問屋に販売し、代金で肥料などを買って増産をはかりたい、というものです。村々でつくる作物は自由に販売できるわけではなく、様々な手続きが必要でしたが、市場町と周辺の農村との間には、こうした経済的な結びつきがありました。

長芋売場願 活字

与野町と与野道、羽根倉河岸・秋ヶ瀬河岸と引又道

与野・羽根倉・引又道の経路(推定)常盤の庚申塔道標(是より与野道)

与野町は、中世の「市場祭文」にもその名が見られる古くからの市場町です。江戸時代には、荒川舟運の羽根倉河岸と、中山道の宿場である大宮、浦和との間に位置する地の利から大いに賑わい、「新編武蔵風土記稿」などによると大宮・浦和の両宿場町よりも多くの人口を擁していました。また、羽根倉で荒川を渡り、引又(現在の志木市)や小川新田(現在の東京都小平市)を経て甲州道中の日野宿(現在の東京都日野市)へ通じる街道は、岩槻道や甲州道などとも呼ばれた街道で、与野町は宿場として公用の人馬の継立も行っていました。
与野町へ通じる道筋には、多くの人が行きかいました。与野町のある台地と中山道が通る台地の間には鴻沼の低地があって切敷川が流れており、通行がしにくい場所でしたが、与野町から東へ向かう赤山道には石橋が架けられていました。
与野町から南西に向かい、荒川を越えて、奈良時代に置かれた武蔵国府(現在の東京都府中市)や鎌倉方面へ向かう道筋は、遅くとも中世には成立、利用されていたようで、羽根倉の地名は観応2年(1351)に起きた「羽根倉の戦い」に名前を残しています。荒川の渡し場があった羽根倉や秋ヶ瀬は、荒川舟運の寄港地でもあり、河岸場としても賑わっていました。
対岸の引又(現在の志木市)は新河岸川に面した河岸場の町で、江戸時代には江戸と川越を結ぶ舟運の中継地として栄えました。道筋沿いには「引又道」と記された道標も多く残されています。また、この道は、大山や富士山など山岳信仰の聖地を目指す人にもよく利用されていたようで、「大山道」「ふじ道」などの道標もみられます。
※推定経路図の背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用

下落合村北組絵図

下落合村絵図下落合村北組絵図の道筋(推定)

江戸時代後期 個人蔵(浦和博物館寄託)
下落合村は、現在の中央区下落合、新中里付近にあたります。絵図は北が右になっており、村の北端(絵図の右端)の道は赤山道です。浦和と与野を結ぶ最短経路の道筋は、下落合村を南北に通りぬけており、一部は下落合村と針ヶ谷村との村境にあたっています。この道筋の現在のようすは、「与野郷土資料館展示Web解説(その28)(その29)」で詳しく紹介しています。
左上写真の、道標を兼ねた庚申塔は、浦和宿の北方、中山道から与野道が分かれるところ(絵図では左下)にあったものです。右側に「是より よの 川越 秋葉 道」と記されており、与野町を越えて各方面への往来に使われていた道筋であることがわかります。現在は浦和博物館の庭に移設されています。

 

上大久保村絵図

上大久保村絵図の道筋(推定)上大久保村絵図江戸時代後期 個人蔵(浦和博物館寄託)
上大久保村は、現在の桜区上大久保付近にあたります。絵図は左が北東、右が南西です。村の中央、自然堤防の一番高いところを羽根倉道が通っています。

荒川の渡し場と川越道

川越道の推定経路川越城は、岩槻と並び、江戸の北側を守る重要な城で、江戸時代には幕府の信用の篤い大名家が代々の城主を務めていました。歴代城主は城下町の繁栄を重視し、武蔵国内では忍(現在の行田市)と並ぶ大都市に成長していました。川越を中心とした人や商品の移動も多く、四方八方から道筋が集まる交通の要衝でもありました。
さいたま市域から川越に向かう場合は、どこかで荒川を渡る必要があります。当時は荒川を渡る橋はこの付近にはなく、渡し船を使いました。主な渡し場としては、下流側から、飯田新田の「船戸の渡し」(別名「昼間の渡し」)、遊馬村の「千手堂の渡し」、宝来村の「老袋の渡し」、平方町(現在の上尾市)の「平方の渡し」などがありました。渡し場の多くは荒川舟運の河岸場を兼ねており、問屋や船宿もあって賑わっていました。
※推定経路図の背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用

指扇村絵図(写真)

指扇村絵図(写真)指扇村絵図の道筋(推定)江戸時代後期 原資料:個人蔵
指扇村は、現在の西区指扇付近にあたります。絵図は下が北側で、与野から指扇村を抜けて法願寺村へ向かう道筋が、左上(南東)から下(北)に通り抜けるように太い線で描かれており、途中に「与野みち」と記されています。法願寺村から先は、西へ向かうと老袋の渡しに至ります。

越ケ谷道・粕壁道

越ケ谷道・粕壁道の経路(推定)越ケ谷と粕壁はいずれも日光道中の宿場町です。日光道中は北関東や東北地方の諸大名が参勤交代に利用する幹線道路で、越ケ谷宿・粕壁宿とも宿場の規模は浦和や大宮よりも大きく、越ケ谷のだるまや粕壁の桐箪笥といった地場産業もあり、定期市も開かれる大きな町でした。さいたま市域も、東部の地域では日光街道沿いの宿場とのつながりが強く、越ケ谷宿や粕壁宿への助郷を命じられる村もありました。人の往来も多かったようで、越ケ谷や粕壁への道標があちこちにみられます。
※推定経路図の背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用
慈恩寺の庚申塔道標1左写真の道標は、岩槻区の慈恩寺から北西に約250m程の分かれ道にあるものです。正面には「奉供養庚申塔」、右面には「右方 粕壁道」、左面には「左方 幸手道」と陰刻されています。慈恩寺の方から来て左に向かうと鹿室で日光御成道に合流して幸手方面へ、右に向かうと裏慈恩寺、小溝を通って春日部方面に道が通じており、慈恩寺への参詣後にそれぞれの方面に向かう人の案内のためにつくられたのではないかと思われます。つくられた年は宝暦6年(1756)と記されています。

その4へ続く

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※挿図の背景地図には、特記したもの以外は「地理院地図」を使用した。

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