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更新日付:2026年6月9日 / ページ番号:C130513
令和8年3月20日から6月7日まで開催した、第37回企画展「近世さいたまの道-村をつなぐ生活の道・信仰の道-」 の展示内容を紹介します。その1はこちらです。
「陣屋」は、城を持たない小藩の大名や、幕府の代官などが領地に作った役所(事務所)です。さいたま市を含む現在の埼玉県南東部では、江戸時代には幕領(幕府の領地)や、幕府に仕える旗本の領地が多く、この地を支配するために派遣された代官が構えた陣屋がありました。徳川家康の家臣で、治水などを担当した伊奈忠次(いなただつぐ)の拠点だった「小室陣屋」(現在の伊奈町)や、その子で見沼溜井の造成などの事業を指揮した伊奈忠治(いなただはる)の「赤山陣屋」(現在の川口市)などは、現在でも史跡として残り、広く知られています。
陣屋は、江戸時代の初期には各地に置かれていましたが、各村の状況が安定し、村役人が領主に代わって様々な業務を行えるようになってくると次第に縮小されていきました。特に旗本は基本的に江戸の屋敷で暮らしていたため、幕末まで残った陣屋は少数でした。
江戸幕府が開かれる前から徳川家の家臣として領地内の治水や土木を担当し、その後も幕臣として活躍した伊奈忠次は、小室(現在の伊奈町)に陣屋を構えていました。忠次が慶長15年(1610)に亡くなったあと、長男の忠政が家を継ぎましたが、幕府の支配地域が広がって仕事が増えすぎていたため、江戸周辺の職務は忠次の次男である伊奈忠治が引き継ぐことになりました。伊奈町の小室陣屋は忠政が引き継いだため、忠治は新たな拠点として、赤山村(現在の川口市)に陣屋をつくりました。これが「赤山陣屋」と呼ばれているものです。忠治はさらに、荒川筋、古利根川筋の治水や新田開発を行うための出張所として、土屋村(現在のさいたま市西区)と大川戸村(現在の松伏町)にも陣屋をつくりました。また、小菅村(現在の東京都葛飾区)には伊奈家の下屋敷があり、これらの各施設を結ぶ道筋は、伊奈家の家臣や関係者がよく通るようになりました。
各地から赤山へ向かうこれらの道は、やがて「赤山道」と呼ばれるようになりました。さいたま市内では、土屋村の陣屋(家臣の永田氏が住んだことから永田陣屋とも呼ばれる)から、与野町を経由して市内を東西に横断し、忠治が見沼溜井をつくるために築いた八丁堤の上を通り、赤山陣屋へと続いています。日光御成道の鳩ケ谷宿に行くのにも便利なため、沿道の道標には「はとがや道」と記されているものもみられます。
※推定経路図の背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用

赤山道は、この付近では三室村と中尾村の境となっていました。正面が赤山陣屋方面、左が三室村(現在の緑区三室)、右が中尾村(現在の緑区中尾)です。左側の庚申塔(右写真)は寛保2年(1742)につくられたもので、「さるまん塚」と呼ばれています。塔の正面には見事な彫刻があり、市の文化財に指定されています。右側には「東ハ赤山道」、左側には「西ハ大宮道」と記されています。
・緑区三室 2026年撮影
領家村は現在の浦和区領家、大東付近、三室村は現在の緑区三室、宮本、山崎、馬場、松木、芝原付近にあたります。 領家村は村の北縁、三室村は村の南縁を赤山道が通っており、領家村絵図では「赤山街道」、三室村絵図では赤山陣屋側に「赤山道」、中山道側に「大宮道」と書かれています。右の推定経路の地図の中で、三室村の★(星印)の場所が、上記の庚申塔道標(さるまん塚)のあるところです。
・三室村絵図(天保7年(1836))個人蔵(浦和博物館寄託)
・領家村絵図(江戸時代後期)個人蔵(市立博物館寄託)
岩槻城から大宮を経て川越城に向かう道筋は、戦国時代に岩付太田氏が両方の城を支配していたころの重要な道筋でした。この道が見沼の谷を渡る要衝の両岸には、戦国時代に館が築かれており、江戸時代の初めにはそれぞれに領主の陣屋が置かれました。東側の大和田村(現在の見沼区大和田町付近)は、太田氏の家臣で、江戸時代には旗本として徳川家に仕えた伊達房実(だてふさざね)、西側の土呂村(現在の北区土呂町付近)は、甲斐の武田家の家臣で、同様に江戸時代には旗本として徳川家に仕えた初鹿野昌久(はじかのまさひさ)に、それぞれ知行地として与えられ、両家の陣屋が置かれていました。
この見沼を越えて岩槻と大宮を結んでいた道筋は、寛永6年(1629)に、見沼溜井がつくられたことによって水没して通れなくなってしまったようです。当時の村絵図には、「見沼池」の中に「古道通ル」と書かれたものもあります。これ以降、享保12年(1727)に見沼の干拓が行われて水が引くまでの約100年間は、大宮と大和田や岩槻との間を行き来するには、八丁堤を通るか、原市町(現在の上尾市原市付近)付近まで回り道をする必要がありました。見沼が干拓されると、見沼を横切る道筋が再び使われるようになりました。
※推定経路図の背景地図には農研機構農業環境研究部門「歴史的農業環境閲覧システム」掲載の「迅速測図原図」を使用


左の写真は、大和田陣屋から東へ向かった、大和田村の東端付近の岩槻道の最近のようすです。左側は今春に開校した大和田小学校の校庭です。この付近の岩槻道は、現在施行中の区画整理事業に伴う道路の付け替えで廃道となることが決まっています。
右の写真の馬頭観世音の石碑は、左写真の場所からさらに東へ向かい、蓮沼の交差点を過ぎた先の蓮沼会館の敷地内にあるものです。左右の面には道標として、左側には「右 い王つき(岩槻) ひだり をふミや(大宮)大山 ミち」、右側には「此方 ふ可さく(深作) 者らいち(原市)ミち」と記されています。文政2年(1818)の銘があり、このころには見沼を横切って大宮に向かう道筋が使われていたことがわかります。
・見沼区大和田町1丁目 2025年撮影


・江戸時代中期 さいたま市立博物館蔵
大和田村の中央よりやや南側を東西に横断しているのが、岩槻と大宮を結ぶ道筋です。戦国時代の館は、この道の北側(今の大宮商業高校の南側付近)にあったと推定されており、発掘調査でも大きな溝の跡などが見つかっています。
見沼干拓前のものとみられる村絵図(左図)には、村の西側に広がる「見沼池」が描かれており、岩槻からの道筋の延長線上にあたる場所には「古道通ル」と書かれています。かつて通行できた道が周辺の田畑とともに見沼溜井に沈んだようすを表しているのではないかと考えられます。
見沼干拓後の村絵図では、「見沼池」に代わって「見沼新田」と書かれています。また、北に向かう道には「原市道」の記載もみられます。


江戸時代、江戸の近郊には、将軍家や徳川御三家の「御鷹場」が設けられていました。鷹場の中では、鷹狩りの獲物を保護するためという名目で、無許可での狩猟や開発などが規制されており、不審者の取り調べなどの権限を与えられた鷹場役人が見回りを行っていました。今のさいたま市域は、桜区や南区の一部が将軍家の御鷹場、西区・北区から緑区にかけての範囲が紀州徳川家の鷹場に含まれており、大宮宿の北澤家は鷹場の管理を担う「鷹場本陣」の役を務めていました。また鷹場内のいくつかの村の名主は「鳥見役」に任じられていました。
『紀州御鷹場村絵図』 は、鷹場内の村々や、境界杭の位置を示した絵図です。鷹場本陣から村々にお触れを回覧させたり、実際の見回りを行った際などに使われたであろう、村々をつなぐ道筋も細かく描かれており、当時の道路網の状況がわかります。こうした道は、鷹場の管理のほかにも、助郷などの賦役のための村々と宿場との間の往来、各地の陣屋や代官所への往来など、行政上の様々な目的にも使われていました。
※挿図の背景地図には、特記したもの以外は「地理院地図」を使用した。
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