メインメニューへ移動 メインメニューをスキップして本文へ移動 フッターへ移動します


ページの本文です。

更新日付:2026年3月31日 / ページ番号:C126610

第49回特別展「真福寺貝塚-国指定史跡50年-」 展示Web解説 その1

このページを印刷する

第49回特別展「真福寺貝塚-国指定史跡50年-」 展示Web解説 その1

令和7年10月11日から11月24日まで開催していた、第49回特別展「真福寺貝塚-国指定史跡50年-」の展示を紹介します。

はじめに 真福寺貝塚のすがた

真福寺貝塚のすがた

真福寺貝塚は縄文時代後期前葉から晩期中葉(今から約3,800年前から2,600年前)に営まれた貝塚を伴う集落の遺跡です。真福寺貝塚は南西から入りこむ谷部と東側の台地上にかけて広がっていて、谷底付近の今の地表面の標高は約10m、貝塚や住居跡が確認されている東側の台地の標高は約13mを測ります。大正時代に谷の中に農業用水を確保するために溜池を掘った時に、土器や漆器のかけらが見つかったことが、泥炭層遺跡の発見に繋がりました。

真福寺貝塚のすがた

真福寺貝塚の位置(赤く囲った部分)

貝塚や住居跡は、西側の谷に向かって逆C字状に広がる土手状の高まり内で多く見つかっています。この高まりは東西約160m、南北約180mの範囲に広がっていて、いわゆる「環状盛土遺構(かんじょうもりつちいこう)」と呼ばれる遺構に該当します。
 

真福寺貝塚調査位置 真福寺貝塚現況
真福寺貝塚 調査位置 真福寺貝塚の現況(西側の低地から東側の盛土部分を眺めています)

真福寺貝塚の立地とまわりの様子

真福寺貝塚は、関東平野の中央にあって、東を中川低地、西を荒川低地で区画された大宮台地の一部の岩槻支台の中央部に位置しています。現在の住所表記では、さいたま市岩槻区城南3丁目と大字真福寺にあり、東武野田線(アーバンパークライン)の岩槻駅から南東に約1.6キロメートルの市街化区域に所在しています。岩槻支台の北東部は元荒川によって慈恩寺支台と、南西部は綾瀬川によって大宮支台と、それぞれ区画されています。元荒川と綾瀬川はおおむね北西から南東方向に流れていて、岩槻支台東側は利根川をはじめとする大小さまざまな河川が形成した沖積地である中川低地が広がっています。岩槻支台は西から東に向かって下る傾斜を帯びていて、西縁は河川の浸食によって急な角度で切り立った地形が形成される部分が多く、東縁は開析谷の顕著な発達を見ることができます。
真福寺貝塚の立地とまわりの様子

真福寺貝塚の立地とまわりの様子

真福寺貝塚と同時期に営まれた集落遺跡は、市内で10か所ほど確認されています。この時期の集落遺跡の多くは真福寺貝塚と同じく、遺跡の中央に窪地があり、その周りに高まりを作る、いわゆる「環状盛土遺構(かんじょうもりつちいこう)」という特徴的な景観をもっています。
 

真福寺貝塚はなぜ国指定史跡になれたのか

真福寺貝塚は今から50年前の昭和50年(1975年)に国の史跡に指定されました。指定にあたり重視された特徴を要約すると、次の4点が挙げられます。
  1. 大宮台地では数少ない縄文時代後期・晩期の弧状の貝塚を伴う大規模な集落遺跡であること。
  2. 集落跡に隣接する低地に発達した泥炭層中には、豊富な自然・人工遺物の包含層が存在すること。
  3. 縄文時代後期・晩期に見られる環状盛土遺構も伴う集落跡であること。
  4. 大正時代から現在に至るまで、縄文時代後期・晩期の研究の対象地でありつづけていること。

今後の縄文文化研究に欠くことのできない、豊富な資料・情報が残されている遺跡であり、未来に向けてこれらの価値を守っていくべき遺跡です。


第1章 これまでの出土資料~近年の遺物を中心に~

この記事についてのお問い合わせ

教育委員会事務局/生涯学習部/博物館 
電話番号:048-644-2322 ファックス:048-644-2313

お問い合わせフォーム